うどん二郎のブログ

95年生/横浜/写真

小さい頃住んでいた街

生まれてから小学3年生まで、愛媛県南宇和郡にある愛南町(当時、4町1村が合併してできた)の長月というとても小さな街に住んでいた。その頃の思い出は今年27歳になろうとしている筆者にとっては遠いものになりつつあるが、折りにふれて脳裏によみがえる。

通っていた長月小学校では一学年9人しかおらず(なので音楽の授業は2学年まとめてやる)、学校のほぼすべての児童の名前を覚え、休み時間になると学年の境なくみんなで校庭に行って遊んでいた。不思議なのは、仲が良くても「君」「ちゃん」付けで名前を呼んでいたことだ。グレた子などおらず、みんな、真面目かどうかはわからないが、ある程度おとなしく生活していた。

f:id:udonjiro:20220420065644j:image長月小学校

いちばん仲がよかった「まさと」君とは歩いて20分くらいの距離に住んでいて、2日に一回くらいずつお互いの家にゲームをしに行っていた。予定を立てずに帰ってしまうこともあった。そのときは、学校の連絡網を見ながら「まさと」君の家に電話し、たいていお母さんが出るので「まさと君いますか?」と代わってもらって、「今日遊べる?」と急に予定を入れるのだ。

街には信号機がなく、お店は家族経営の小さなコンビニだけで、あとは田んぼが広がっていた。たまに交差点で車両の事故が発生したがその後も信号機が設置されることはなかった。f:id:udonjiro:20220420065809j:image
f:id:udonjiro:20220420065814j:image信号機のない街

小学校の裏に続く、長くすこし広めの道路をずっといくと山に入る。そこからしばらく自転車を漕いで坂を登ると「轟の滝」という小ぶりな滝が見つかる。低学年の頃「ここには龍が棲んでいる」という伝説に憧れ、小さなうどん二郎少年はその滝を神格化していた。

そんな街を、小学4年生に上がる直前で引っ越した。父親の転勤のため、家族で一緒に引っ越したのだった。同じ愛媛県内だったが、距離はかなりある。たしか南宇和郡は高速道路が通っておらず、県庁所在地の松山まで行くのもかなりかかったはずだ。引越し先は西条という街で、松山よりさらに香川県寄りの場所にあった。

とうぜん、その知らせを聞いたときは泣いた。もう会えなくなる、とそのとき本気で思ったからだ。いや、会えないことはない、毎日一緒にみんな(8人)といられなくなるのが耐えられない、と、冷静に考えてもまだつらかった。

その後、西条からまた、小学6年生のときに横浜へ引っ越すことになる。転勤族だ。どちらの街でも、慣れるにはすこし時間がかかった。

10年後、大学一年生のときに長月小学校のメンバーと再開する。夏休みを使って数名と集まった。みんな、筆者以外は同じ中学高校に進み(通える範囲ではどちらも一つしかなかったようだ)、進路はそれぞれバラバラだった。みんなの中高時代の、知らない友達の話をすることもあったが、すぐに話題は(といっても、みんなひさしぶりで口数は多くないのだが)、小学校の頃の話に戻った。そのうちのひとり「ゆうき」くんが急に「ジョイフル行こや」と言って、ジョイフル(隣町にあるファミレス)で昼食を取った。帰り道、スーパーで愛媛名産の「ポンジュース」を買った。

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結婚式とか葬式とかがこの地であるかもしれない。そのときは伺おうと思う。