うどん二郎のブログ

95年生/横浜/写真

写真史のための自己言及的資料

 

以下に、筆者が撮影した写真を写真史に紐づけてその性格を論じるということを試みる。ほんとうは写真史において重要な作品を取り上げて紹介してもよかったのだが、そのような内容のテキストはすでに数多く書かれてしまっているし、権利関係もいまいちクリアできるのかどうかわからなかった。なるべくバランスよく写真を選んで、一枚一枚から見えてくるものを分析したい。ここでは撮影した意図は極力排して論じる。

前提として、写真は「組織された時間、組織する時間から限りなく引きこもって」いて、時間に沿った運動・流れを生の原理だと定めるならば、そのような「生き生きとした流れから、つねに取り残されてしまう」(小林康夫「光・顔・時間ーー写真は截断する」)(注1)。つまり肉眼に映る映像と写真の映像は「動き」という点で決定的にことなっている。

小林は写真の特異性を、限りなく厳密な再現性にも、反復可能性にも見出してはおらず、その截断性に見出している。そのじつ、「わたしたちの眼差しは、つねに物語の可能性に濡れて、運動するイメージとしてしか、世界を見ることはできない」が、写真の「非=人間的なイメージ」は光も時間も截断するようにして事物を捉える。「断ち切ったその截断のイメージ」は、「わたしたちの日常的な眼差しが危うくなり、解体される危険」があるものである。これはスポーツ写真を例にとればよくわかるが、事物が止まって見えるということは人間の眼には起こらない。この静止しているという状態こそが、写真というジャンル固有のものなのだ。

f:id:udonjiro:20220907201017j:image図1

これを踏まえるならば、まず思いつくキーワードは「決定的瞬間」であろう。フランスの写真家アンリ・カルティエ=ブレッソン(1908-2004)の写真集『決定的瞬間』(アメリカ版『The Decisive Moment』からの訳、1952年)のタイトルとして有名になったこの言葉は、いうなれば「絶妙なシャッターチャンス」のことである。写真評論家鳥原学『教養としての写真全史』(注2)ではカルティエ=ブレッソンの写真の特徴を「幾何学的に調和のとれた構図」に見出しており、「とるにたらない些細なものが、写真では重要な主題になる」「私たちは、私たちのとりまく世界を見つめ、それをある種の証として見せる。フォルム同士が互いに織りなす有機的なリズムは、出来事の事件性をきっかけに生まれる」との本人の言葉を紹介している。一瞬の動きを厳密な構図でふわっと切り取るその美学は、まさに「逃げ去るイメージ」(フランス語版『Image à la sauvette』の日本語訳)を捉えたものである。

図1にはカルティエ=ブレッソン的な主題が垣間見える。中央からやや右下に位置する人物が、画面からは見えないゴールらしき場所にバスケットボールをシュートしている瞬間である。ボールは左上に向かって放たれているようで、その姿はすこしブレている。人物を囲むようにして樹々が生い茂っており、なんとなく四角に囲われているようである。曇りの日に撮影されたのか、画面が白いのも特徴的だが、全体的に明るい雰囲気に見える。人物の服装も白色と、ボールとの対比もある程度明確である。シュートされた一瞬を捉えた一枚だ。

このような撮影スタイルをスナップショットという。「小さなカメラで気になる対象を撮影する」もので、「最も簡便な記録であり表現手段である」(鳥原前掲書)。東京工芸大学芸術学部写真学科で教科書として用いられている『写真の教科書』(注3)では、スナップショットを撮るさいに「シャッター速度を操作することによって、鑑賞者にさまざまな動きの印象を与えることができます」「ブレを上手に利用すると、被写体や撮影者自身の動きを表現することができます」と、ポイントが記されてある。

小林康夫の著作に戻ると、「写真的経験とは何か」(注4)で、「(写真には)特権化された瞬間はない」「時間は正確に特定化されている」「一枚の写真は、ある一定の条件のもとでの世界の一状態である」と述べられているが、これはスナップショットの本質のようである。つまり、瞬間の特権化ではなく、特定=決定化することによって写真は肉眼から区別される。世界の時間的連続からたまたま抜き出された一状態が、要するにスナップショットということなのである。

写真史上には、フランスのジャック=アンリ・ラルティーグ(1894-1986)やアメリカ・ニューヨークのヴィヴィアン・マイヤー(1926-2009)がアマチュアカメラマンとして生涯撮影していたほか、パリのロベール・ドアノー(1912-1994)、ニューヨークのソール・ライター(1923-2013)などが街角のスナップショットを多く撮影していた。アジアでは、「東洋のカルティエ=ブレッソン」と呼ばれた中国のファン・ホー(1931-2016)や「和製カルティエ=ブレッソン」と呼ばれた日本の木村伊兵衛(1901-1974)などがいる。

f:id:udonjiro:20220908094416j:image図2

夜の交差点を捉えた一枚である。フラッシュが焚かれており、右端の白いポールや左端の電柱、樹、中央の横断歩道、車道のオレンジ線、信号機などが細部までくっきりと写っている。道に人影や車の姿はなく、澄み切っている印象だ。

時代順は前後するが、フランスのウジェーヌ・アジェ(1857-1927)が撮ったパリの街並みとすこし重なる。むろん昼と夜、そして撮影された地域の差はある。アジェは昼のパリ、この写真は夜のどこか、しかしおそらくヨーロッパではなさそうだということが見てとれる。アジェはフランス南西部ジロンド県、ドルドーニュ川近くのリブルヌという街で生まれた。幼くして両親を失くし、叔父に引き取られたという。神学校に進むが肌に合わず中退して商船に乗り込み、ウェイターになるがそれも辞め、俳優を夢見てパリの演劇学校に入る。24歳の頃に旅回りの役者になり、41歳で劇団をクビになって42歳でパリの街を撮り始める。

アジェは当初「芸術家のための資料」を掲げて街を撮影していたが、最近の研究ではそれは一時的なものだったらしい。その後1890年代ごろから体系立てたシリーズを撮影して、図書館や博物館にセット販売しようとした。生涯に撮影した写真は8000枚にのぼるという。世界的に知られるようになったのはマン・レイのアシスタントだったベレニス・アボットがアジェを評価し、亡くなって写真集を出版してからだった。

アジェの写真は記録性が高い。金村修・タカザワケンジ『挑発する写真史』(注5)のアジェ紹介パートで金村は「記録、分類、整理する対象として写真を撮るということは、表現として写真をとらえるというよりも、街や風景を「複写」するみたいな意識のほうが強い」と述べている。この記録性、非表現性はのちのシュルレアリストたちに見出された。それは「花の都パリが、まるで廃墟に見える」(タカザワ)ものだった。このことに関して、ヴァルター・ベンヤミンは『写真小史』(注6)のなかで次のように書いている。


アジェは行方知らずになったもの、漂流物のようなものを探したのだった。したがってこうした写真も、都市名のエキゾチックな響きに抵抗している。沈んでゆく船から水を掻い出すように、こうした写真は現実からアウラを掻い出す。


都市はこれらの写真の上では、まだ新しい借り手が見つからない住居のように、きれいにからっぽである。


そこでは、細部を鮮明に捉えるために、ほのぼのとした雰囲気はすべて犠牲にされる。

ベンヤミンはアジェの写真を「犯行現場」(注7)のようだと指摘している。警察による現場写真。不思議に細部が生々しく迫ってくるような写真である。同じくアジェの写真に魅せられた写真家/写真評論家中平卓馬は『決闘写真論』(注8)で「いわば真空の、凹型の眼に、向こう側からとび込んできた世界、都市をくしくも刻印した写真」と評している。「アッジェの映像はそのような私の思い出、情緒を最後の最後で突き放し、街は街として、事物は事物として冷ややかに私を凝視している」。

では「犯行現場」というなら、図2の写真を見てウィージー(1899-1968)を思い出してはどうか。ウクライナで生まれたユダヤアメリカ人の彼は、ニューヨークで起きた事件や事故の現場にいち早く駆けつけ、ストロボを焚いてセンセーショナルに撮影した。そこにはスキャンダリズムがある。思わず顔を手で隠した被写体もいた。鋭い批評精神に貫かれたその写真は、まさに「犯行現場」そのものを押さえたものだった。

図2の写真は、犯行が行われなかった「犯行現場」ようである。なにもないことを証明するために克明に撮影する。夜間、フラッシュを焚かれて細部まで写し出されたそれは、そこにあるはずのものがないウィージーのようでもあるし、昼と夜が逆転し都市名を剥奪されたアジェのようでもある。

f:id:udonjiro:20220908200917j:image図3

凝視とはなにか。たとえば中平は前掲書でそれを「一本の鋭い視線、あくまでもすべてを貫き通そうとする目の意志、すべてを内側に受け入れ、対象とそれを見る主体とその関係につねに疑問を提出し続けようとする目の意志」と記している。ではそこにどんなことが起こるか。「日頃慣れ親しんだ事物を、ある時ふとしたはずみで凝視する時、そこにそれまで見たこともない事物の新しい姿を発見する」。

新即物主義(ノイエ・ザッハリヒカイト)の写真は、そのような「凝視」の意志に貫かれたものである。1920-30年代ドイツのアルベルト・レンガー=パッチュ(1897-1966)らは「世界は美しい」と謳い上げた。写真技術の進化が高精細な描写の追求を可能にし、肉眼では認知できない新しい造形を発見しようという動向である。レンガー=パッチュの写真集『世界は美しい』(1928年)は、動植物やさまざまな工業製品、建築などをクローズアップで大胆に切り取り、対象の形態とテクスチャーを克明に捉えていた。鳥原前掲書では新即物主義の写真を「自然のなかに見出された幾何学的な造形美は機械のそれと重ねられ、世界はあらかじめ美的秩序とリズムを持っているということを示した」と説明している。

あらゆるものを等価なまなざしで捉えること。『写真の教科書』には「被写界深度を深くして手前から奥にあるものまで、そのすべてをハッキリと写す(これをパンフォーカスといいます)と、見る人は画面全体をくまなく見渡して、そこに写されたモノとモノとの関係性や、色とかたち、光と影などが織りなす画面構成に注目するでしょう」と記されてある。

あるいは図3は、硬質さという点で、花やヌードを大胆に撮ったニューヨークのロバート・メイプルソープ(1946-1989)に近いかもしれない。『フラワーズ』(1990年)には、端正で硬質な静物写真が収められている。ふたたび『写真の教科書』の「作品研究」を参照すれば、彼は「必要最小限のモノで画面を簡略に構成したうえで、あえてオーソドックスな印象の光を演出して撮影しています。しかし、そのことによって築き上げられた世界は、まるで大理石のような端正で硬質な印象を漂わせるものとなっています」と分析されている。

f:id:udonjiro:20220908221805j:image図4

全体のアレ具合、ビルや車の光、深い黒と白の対比、なにより都市を撮っているこの写真は、長いキャリアで作風はそのつどことなれど、同じく都市を撮った森山大道(1938-現在)にオマージュを捧げているようだ。

写真史家の金子隆一は『日本は写真集の国である』(注9)の中で森山の写真を「ストリート・スナップを方法として揺れ動く現実と渉りあい、強いコントラストで細部を省略する力強いイメージで、見る者の感情を挑発するものである」と表現した。日本の写真集をまとめて構成した写真評論家飯沢耕太郎・文『写真集の本』(注10)では、森山の写真集『光と影』(1982年)について「事物にストレートに対峙してシャッターを切ることで、被写体が強力な物質感をともなって浮かびあがってくる」と書かれてある。

森山は十代の頃からグラフィックデザイナーとして仕事をした後、関西の写真界でトップだった岩宮武二(1920-1989)の事務所に助手として入る。その後上京し写真家集団VIVOのメンバーだった細江英公(1933-現在)に助手として雇われる。独立後、カメラ雑誌で活躍し、中平卓馬も参加していた『プロブォーク』に二号から参加。「アレ・ブレ・ボケ」と評される。しかし『写真よさようなら』(1972年)を出したあとに、長いスランプに陥る。そこで80年代になってようやく出したのが前述の『光と影』だった。

森山は雑誌『写真』(注11)の北島敬三との対談の中で「記録だとか記念、記憶だとか、まあその中に嘘はないけど、でも、写真ってさ、そういうのを超えた強さがあるんだよね」と語っている。ある意味、アッジェに魅せられつつ、別のしかたで都市を記録し続けた写真家なのかもしれない。そこには〈欲望〉が噴出しているようにも見える。

余白に 

 

飯沢耕太郎は『写真的思考』(注12)で「写真という表現媒体に特徴的なのは、写真家と観客、すなわち表現の送り手と受け手との関係が他のジャンルと比較してそれほど固定していないことである」と述べている。撮ることと見ること、それから考えること。これらを実践するうえで、写真史という土台は重要になってくる。いま審美眼は歴史的にどの位置にあるのか?  むろんここに記してきたことには穴も多い。そして写真史はものすごい速さで更新されてゆく。しかし自分の撮った写真の立ち位置を見定めるとき、写真200年の歴史にすこしでも触れていることは、けっして意味のないことではないと思う。

 

*注

(注1)『身体と空間』所収、筑摩書房、1995年

(注2)筑摩書房、2021年

(注3)著・大和田良、勝倉崚太、岸剛史、木村崇志、船生望、圓井義典、インプレス、2016年

(注4)『身体と空間』同上

(注5)平凡社、2017年

(注6)筑摩書房、1998年、ベンヤミン初出は1931年

(注7)正確には、アジェの写真集の序文を書いたカミーユ・レヒトの言葉の引用

(注8)篠山紀信写真、朝日新聞社、1977年

(注9)梓出版社、2021年

(注10)KANZEN、2021年

(注11)ふげん社、2022年1月

(注12)河出書房新社、2009年