一つの色が他の色との接触によって変化するように、映像は他の映像との接触によって変化しなければならない。ーーロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』
いつだって映画は唐突にはじまる。吉田大八『桐島、部活やめるってよ』(2012年)のはじめのカットに映っていたのは名前も明かされない女子生徒が羽織っていた、真っ赤なジャージである。ひとまずその存在を忘れないでおくとして見進めると、映画部の部員たちがゾンビ映画の撮影のために血糊を用意していた。ジョージ・A・ロメロのゾンビ映画に精通する前田(神木隆之介)は『映画秘宝』を持ち歩いていたけれど、『カイエ・デュ・シネマ』のゴダールのインタビューは頭の中によぎっていたのだろうか。
カイエーー『気狂いピエロ』ではたくさん血が流れますね。
ゴダールーー血ではなく、赤い絵の具です。
中平卓馬がゴダール『ウィークエンド』評で述べたのと同じように『桐島』では、「すべては『絵にかいた』ようなのである」。つまりラケットケースも屋上の扉も、体育のジャージもなにもかも、あちこちに、嘘みたいに赤色が散りばめられている。中平は「『ウィークエンド』で流された血は赤い絵の具であることを自明のこととして観客に明らかにした上で成り立つ血なのである」と記した。同様に本作でもラストの屋上の格闘シーンは、ほかのきわめてリアルなタッチで描かれるシーンとくらべてアンリアルなものではあるけれど、前田の「僕たちの映画が、ほかの映画につながっていると思うときがある」というセリフのように、血糊という手法を明かしつつ、映画的には確立されたジャンルであるゾンビ映画の系譜にあきらかに連なっている。
はじめに戻るが、桐島がいないという唐突さも手伝ってかいくつかのファクターによって作劇上の効果も高まっているように思える。たとえば腰から上を映しながらカットを刻むバストショット。人物を画面の真ん中に据えて二、三言喋らせる。関係性を明示するにはこれを繰り返すだけでこと足りる。そこにクローズ・アップ。この映画のもうひとつの特徴は、フレーム外に意識を集中させもする視線のドラマであろう。恋慕、嫉妬、動揺その他、前後の映像に誰と誰が映っているかだけで感情や気分が読み取れてしまう。そのように作られてある。引きの画も松籟(注1)高校という空間を立体的にさせるし、吹奏楽部の演奏も空間がつながっていることを体感させる。
しかし一方でそれらは古典的な手法でもある。あるいは、それらの組み合わせ。同時多発的な作劇法も青春群像劇というジャンル性も、ワーグナーの音楽さながらラストの交響的展開もミステリー的な仕掛けもその合間のサスペンスも、映画の歴史の蓄積である(注2)。
「絵にかいた」ようなのはそれだけではない。人物たちは鉢合わせる。つねに都合よく。一歩引いて見れば、血が赤い絵の具であるのをわかって見ているのと同様それがフィクション上の操作であることもわかる。しかしそのスムースさもまたブレッソンの言葉のように映像のつなぎ方の効果なのかもしれない。カメラの寄り引き。そしてリズム。この映画では長回しはごく重要な場面でしか用いられない。
『ゴドー』を引き合いに出して本作を語る評もある。たしかにときにこの映画はコントであるし、不在で物語が駆動する。けれど巻き込まれる人数と視点の数が両者を分けていると思う。
「半径1メートル」で探したテーマは、TSUTAYAでふと手にした『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のDVDだったかもしれない。
(注1)松籟(SHORAI)=将来という細工を見抜くと、最後の屋上のシーンで宏樹(東出昌大)がカメラに映されていなかったこと、その後泣いたこと、グラウンドを眺めていたことが、一人だけ進路表を決め切れない状況に対応しているのではないかと思えてくる。
(注2)ガス・ヴァン・サント『エレファント』と比較して本作を過度に貶す向きもあるが、あまり賛同できない。