うどん二郎のブログ

95年生/横浜/写真

旅行の話

 

東京オリンピック開催前に日本から海外へ旅行をすることは、かんたんで楽しくてわりあい金銭的にも値段に見合った体験ができるものだったと、まだiPhone5sだか6だかで撮った粗い画質の写真を見返しながら思う。

2014年に大学の第二外国語履修で第一希望のスペイン語が選外になり(話者も多く、「実用的」と言われさしたる覚悟もなく書類を提出した)、なぜその次に選んだのかももはやさだかではないが、いまとなっては選んでよかったと思える第二希望の韓国語を、週4コマのペースで受講していた。一年間はそれが必修だったから発音や文法、単語も「赤子並み」(菊地成孔)にはなっていたはずで、秋学期の期末テストを終え春休みには路線図や地理が好きな同学年の友人と「現地実習」と称して韓国・ソウルへと飛んだのである。このとき、この友人とはすでにその前の年に京都に旅行してもいた。海外へ行くのは2012年の高校生のときアメリカ・メリーランドへホームステイ研修へ行った以来2回目だったのだけれど、彼は家族旅行などで小さいころからしばしば海外へ行っていたらしい。ともあれ、おたがいパスポートは無事使えた。この韓国旅行が、自分たちで予定を組んで出かける初めての旅行だった。いまとなっては大半がおぼろげな記憶で、でもたしかに行ったというiPhoneの中の「証拠写真」を眺めながら記せば、明洞(ミョンドン)(日本でいう渋谷、原宿的なエリア)には韓国に着いて最初に行ったらしい。屋台や日本でも見たことのあるグローバル企業の看板が並び、夜でも賑わっていて、おまけに丸亀製麺すらあった。さすがにそれは食べなかったが、さながらセンター街を歩いているかのようだった。

ここ数年聴いている野村訓市のラジオ「TRAVELLING WITHOUT MOVING」(J-WAVE、毎週日曜20時〜)では「旅」をテーマにリスナーや野村訓市自身の体験が語られる。「動かない旅」、あるいはそれは回想かもしれない。こうやって旅のことを考えることも、日々の忙しさや悩みから解き放ってくれる。ラジオでは、旅先で出会ったひとと数年ぶりに会ったという話や、旅中高熱を出しながらも移動しなければならずつらかったという話などがよく語られるのだけれど、ぼくは基本旅の途中では誰かと仲良くならないし、食べ物や環境も注意するから体調も崩さない、言ってみれば非冒険的旅行者だ。とくに旅先でもマクドナルドによく行くという時点で保守的であるといえるかもしれない。宿だって、初めて海外へひとり旅をした2018年のニューヨーク卒業旅行も、安く抑えられるユースホステルには泊まらず、できるだけ安価な普通のホテルに泊まった。だれかと旅行に行くときも、移動手段が取りやすく、普通の安めの宿を取ることが多い。だからあまり宿でひどい目に遭ったことはないのだが、一度だけ、これも卒業旅行としてテニスサークル(そう、ぼくは高校から始めて12年もテニスをやっているのです)の同期3人と西日本をレンタカーで横断したとき、ほかに予約が取れず名古屋で一泊3000円くらいの個人旅館に泊まって、居心地が悪くぜんぜん眠れなかった記憶がある。あのとき床にこびりついていたほこりのことは、嫌な気持ちになりながらも思い出せる。

気候は涼しい時期に、温帯に分類される地域に行くことが多いけれど、2015年の9月に行ったベトナムハノイは蒸し暑かった。土砂降りのスコールが降って足元がずぶ濡れになりながら市街地を歩いているとき、一緒に行った中学時代の剣道をやっていた友人がしびれを切らし「タクシー使わない?」と提案してきた。貧乏旅行だったけれどたしかに名案だった。というか、なんでもっと早く思いつかなかったのだろう、というような切迫した状況でもあった。結局タクシーを捕まえて、英語が伝わらないので地図や住所を伝えて宿まで送ってもらい、そこまでの大金は払わずにすんだ。このベトナム旅行で思い出すのは市内のはずれを歩いているとき、英語で「靴見せて」といきなり自分の靴をふんだくられて修理しはじめ、いくらだったか、頼んでないのに料金を請求されそうになったことだ。ぼくが履いていたのはスニーカーで、たしかに底がボロボロになっていたのだけど修理といっても薄いゴム板を貼っ付けただけで、まあぼったくりに近い。これが街で出会う初めてのトラブルだったから、おおごとにならないように「これだけしか持ってない」と少しのお金を渡してその場を去った。あれはなんだったのだろう。言葉もまともに通じなければ、相手がやりたいこともわからないという状況は、外国に行かないとなかなかない。それでも、ベトナムはカフェ文化が発達していて内装のきれいなカフェに入って落ち着くこともできた。アイスカフェラテも、甘くてクリーミーで美味しかった記憶がある。その近くに水上人形劇の劇場があって、これは動画で見たほうが迫力が伝わると思うのだが、人形の動きのダイナミックさと噴出される水、カラフルなライティングと相まってかなり奇妙な人形劇だった。そして、じつは韓国に一緒に行った友人がそのすこし前にわれわれと同じ目的地に家族旅行に行ったらしいのだ。それはハロン湾という世界遺産で、海上に岩がせり出している風景が一望できるクルーズツアーだった。ところが航行中、船の横に幅寄せてきたのは「海賊」だった。じっさいは高額で食材を売る商人的な存在らしかったのだが、いきなり現れるとびっくりさせられるものだ。こんな危なっかしい目に遭わせられるとは思わなかった。

それにしてもやはり各国の都市の造りは面白い。先にすこし触れた2018年のニューヨーク単独卒業旅行では、MoMAメトロポリタン美術館、ホイットニー美術館、ニューヨーク公立図書館、ソロモン・グッゲンハイム美術館その他多数の美術館を回ったが、ほぼ、マンハッタンのはずれの宿から地下鉄で数十分で着いた。これだけ見どころが密集している、計画的に作られた街もなかなかないのではなかろうか。2023年現在は円安の影響でランチが1万円を超えるとも伝え聞くが、ぼくがある日入ったIppudo(とんこつラーメンチェーンの一風堂)は$19.60(当時で2000円弱)+20%のチップだった。それから千葉雅也もボストンでの研究滞在生活を綴った『アメリカ紀行』で触れているが、ダンキンドーナツである。ファーストフードの店舗で、値段が控えめでどこにでもあって、マクドナルドより綺麗で入りやすかった。ぼくは1週間弱しかニューヨークに滞在しなかったけれどずっと同じ宿にいて、そうすると最初のうちにカフェなり安めの店なり、どこかを「領土化」する必要がある。そこを拠点のひとつにするのだ。ダンキンドーナツはコーヒーも美味しいし活気もあって、一日のことをそこから考えるにはうってつけだった。肝心なのはもうひとつ、その辺を歩いていてもマクドナルドよりたくさん見つかることである。居場所にしやすい店だった。本屋にも行って流行をチェックしようとしたが、英語力に限界があって詳しい内容までは追えなかった。フィッツジェラルドとかヘミングウェイの古典もあったしビジネス書などがよく読まれてる印象だった。ストランド・ブックストアという古本屋に行くと、フーコーの講義録がずらっと棚に並んでいて人気だったのと、東浩紀『一般意志2.0』の英語版が売ってあった。後者は日本語版で読んでいたこともあって、英語の勉強のためにも一応買ってみた。f:id:udonjiro:20230602132502j:image摩天楼

じつは上のNY旅行には続きがある。先ほどの韓国旅行に行った友人とパリで落ち合おうということになっていたのだ。彼は事前にロンドンから特急電車で、ぼくは飛行機で向かおうとしたのだが、JFKから飛ぶはずだった便がトラブルでキャンセルされたと前日にメールが入った。結局別の便でオルレアン空港までは行くことができたのだが、待ち合わせに苦労した。それから先回りして帰りのことを書くと、2回トランジットでモスクワ、ソウルと経由したのだがモスクワで荷物がロストしてしまった。これは本当に困って、ソウルで発覚したのだけどお土産や衣類はぜんぶキャリーバッグに入っていたから日本に帰ってからの生活を韓国で心配する羽目になってしまった。ともあれ、パリである。学部はフランス現代思想が専門の先生やじっさいにフランス語で原書を読んでいる友人が多い環境だったし、ブレッソンジャック・タチなどこだわりが強そうなフランス映画監督の映画も好きだったから楽しみだったけど、なにせフランス語がわからない。そんなところに、突然、友人と泊まったパリ北駅横の古めかしい宿の窓を開けると、白煙が立ち上っていた。f:id:udonjiro:20230602132014j:image18年3月22日、パリ北駅のデモ

なにがあったのかその場にいた人に聞いても”Manifestation!”と繰り返されるだけでよくわからない。後でわかったのは、これはマクロン政権の公務員に対する政策に反発してのデモだったということだ。のちにあの「黄色いベスト運動」につながるアクションをその場に居合わせて目撃できた。だからその日は地下鉄も一部動いてなかったし、美術館もストのために休館だった。別の日にルーブルピカソ美術館もポンピドゥーセンターも行けたのでそれはよかったが、オルセー美術館は行けずじまいだった。帰り際、原書でルジャンドルを読んでいる友人にデリダエクリチュールと差異』(かろうじて「エクリチュール」と「差異」が読めた)をお土産に買っていった。

先日会った友人が世界一周旅行を計画しているらしく、そのために代官山の蔦屋書店に一日篭って雑誌や旅行本を漁っていたという。ぼくも旅の計画を立てるときは『地球の歩き方』にお世話になる。韓国とニューヨークに行ったときは雑誌『TRANSIT』や『BRUTAS』をそれぞれ持っていった。コロナ禍を経て、旅への感覚はいままでのようには気楽なものではなくなったかもしれない。すくなくとも海外へはこの3年間行っていないし、国内旅行すらほぼしていない。ただ、雑誌で取り上げられている近場のエリア(葉山、東京湾沿いなど)に車を出して行くこともある。「旅」で一冊分厚い雑誌になるのだから、人びとがもともと持っている旅行への思いは熱いものがあるのだろう。ちなみに改元の瞬間は、最初に韓国に行ったのとは別の友人とこれまた韓国の地にいた。K-POPが盛り上がっている時期でもあった。こんなふうに旅行という区切りを持つことで時代の捉え方、振り返り方も変わる。さすがに「非国民」とは言われなかったが、あの「平成最後の!」を連呼するムードに物理的に距離をとれたのは幸いであった。

ひとりで行った旅行もあるけれど、友人と行った旅行はどれも友人にたくさん助けられた。楽しかったし、いま振り返っても感謝の念が込み上げてくる。また行こう。