うどん二郎のブログ

95年生/横浜/写真

ゆっくりした時間

ひとつの時間の中にあって幾億も重なる昼と夜

ーー小沢健二「ブルーの構図のブルース」

朝、行きのくだりの坂道から思う些事を帰りの電車で思い出して書き留めるまで、半日以上の時間が流れているはずなのだが、あたかもその半日以上の時間は身体から切り離されてしまったかのように意識から抜け落ちている。ゆっくりした時間がなければ考えごとは進まない。ごはんを食べてお風呂に入って歯を磨いて、あとはもう寝るだけというタイミングがよく考えがはかどるのだけれど、あるとき「集中している状態というのは忙しなくしているときではなくて、ぼーっとしているときなんだ」と説くひとがいて、こうして夜更けにまとまった「文」のかたちで想念をしたためるとき、そのことを強く実感する。気持ちが落ち着いていたり、ほかのことに邪魔されなかったりすることがどれほど貴重なことか、むかしはあまり考えなかった。仕事や家事、世の速い動きに合わせて流れるように思考していくこともあるが、好き勝手読んで、見て、思索を凝らしてそれを書き残すには、急がないで時間をかけることが必要だ、と思う。

べつにライフハック的な指南をするつもりはないのだが、その際、案外手書きのメモが役に立つ。あまりメモを手書きで残すことはしなかったのだが、アナログな回路を使うことで日常に「傷」をつけられるというか、用紙の場所を取る分目につきやすい。ペンで書いた文字もディスプレイに表示されるそれよりゴツゴツしていて、というかスマホやパソコンの画面に並んでいるそれはつるつるとしすぎていて頭に入りづらく、比較すると時間と手間はかかるが手書きの汚い字で書いた内容のほうが忘れにくい。反動的に思えるが、いまはこれがしっくりくる。

考えを整理する方法はほかにもある。最近読んだ本で村井俊哉『はじめての精神医学』(注1)がある。「精神医学」という専門分野の全体像を、比較的若い読者に向けて伝えるという本なのだが、内容はさておき、著者が精神医学について考えるときの考え方が役に立つ。いってみれば「消去法」だ。「「こころの病気」に似てはいるが「こころの病気」ではないものを列挙して、そこから「こころの病気」とは何か、を理解しようという方法」(p.158)である。現代思想では「否定神学的」と呼ばれるような方法だ。ここから日常の「ちょっと残念な行動」(遅刻、夜更かし、変なこだわり等)と「病気」のあいだに線を引いていく。あるいは、病気とは「患者の数だけ病気の種類がある」ものではないかという考え方(相対主義)に、「分類は分けすぎると役に立たなくなるのです」(p.25)ときっぱり距離をとる。こうして自分の専門分野をある種割り切ることで治療の成功率を上げることができるようになる。長年その分野にいると見えてくるような限界も、この本で書かれてあるように社会とつながっていて(DSMの版によって削除されたり追加されたりする病気)、そのことに意識的でいられると初学者もしくは専門外のひとにも話が通じやすい。「消去法」という考え方も応用が効く(人付き合い、買い物、料理、自分の専門分野)。

10年以上前の記憶。小田急相模大野駅改札を出て右。ペデストリアンデッキを突っ切ってエスカレーターを降り、コリドー通りの大きな一本道を通ると今はもうない伊勢丹の一階を抜けることになる。さらに奥へ行くと「グリーンホール」があり、中央公園があり、学舎があった。知識を身につけるにはゆっくりした時間が必要だった。ぼくは英語が好きだったのだが、単語も文法も試行錯誤して書いて解いて覚えることになる。そのときやはり細切れの時間ではダメで、休憩も含めてたっぷり時間をとらなければならなかった。もしくは、テニス。スポーツの技術の習得も一朝一夕にはいかない。とくに高校生くらいになるとそれまでやってきた別のスポーツ特有のクセみたいなものも染みていて、新たにやるスポーツの「型」を習得するまでに時間がかかる。高度な動き、技術を身につけて試合に勝とうとするならなおさらだ……といったように、この街には、いま思えば至らないながらも、心身を鍛えた記憶が詰まっている。

ぼくがぼくの学業をやり終えたとき、好奇心にもとづいて続いてきた時間からは変わって、生計を立てるためにごくふつうに仕事を始めた。市場においてなんら高度なスキルを持ち合わせてはいない者なのだが、事務的な業務に携わるにあたって、阿部公彦『事務に踊る人々』(注2)は、これまですこし触れてきた語学やスポーツの「型」と関連して、いまの仕事にユニークな視点を与えてくれた。本書は事務がいかに成り立ってきたか、いかに規範的に振る舞うか、そしてその規範の背後には人間らしい要素があるのか、ということを文学の言葉と絡めて示している。この本で強調されるのはまず「形式」だ。届け出や申告、依頼からレポートや論文まで、必ずフォーマットが決まっている。用件記入の方法や議論展開にもルールがある。それはなぜか。生きた現実が「動くもの」であり、「シンボルのながれ」(梅棹忠夫)に変換して、静止させて統御したいからだ。統御しなければ整理できず、整理できなければ知覚できない。それから次に強調されるのは「注意」である。形の細部に差し向けられる目線のことであるが、あくまで批評とはことなって、事務においてはいかに規範に従うかに大きなエネルギーが割かれる。同書ではそこから現代の注意の規範と「発達障害」へと話題が移っていくのだが、深追いはしない。興味深いひとつの「事務エピソード」を挙げるにとどめておこう。ベン・カフカ『鬼のような書類』で紹介されているフランス革命時の話だ(引用は『事務に踊る人々』から)。

1749年のことだった。フランス革命はすでに恐怖政治の段階に至っている。コメディ・フランセーズの俳優の何人かもギロチンに送られることになった。公開処刑である。処刑を見物しようと群衆も集まった。

ところがいつまでたっても処刑されるはずの俳優たちが現れない。どうやら裁判が延期されたらしい。原因は事務文書のトラブルだという。後に語り伝えられたところによると、公安委員会のシャルル=イポリット・ラブシェールという事務職員が訴追状を盗み、水に浸して原形をとどめなくしてから川に投げ込んだという。大量の処刑リストに心を痛め、事務書類の破棄という形で抵抗を示したらしい。おかげで処刑のための手続きは停滞し、処刑そのものも行われなかった。(p.13-14)

戦争の時代、暴力の時代にソフトの力を信じる。本書の最後はバートルビー論になっている。そこでは「潜勢力」という言葉が出てくるのだが、ある意味これに近いことを日々考えている。つまり、ものごととして現れる前の状態、そのかたちをなす前の力。仕事の前後のゆっくりした時間とは、無意識に刻まれた「傷」を点検する時間なのかもしれない。

(注1)ちくまプリマー新書、2021年。著者の村井俊哉(むらい・としや)は1966年生まれ。京大大学院医学研究科修了。医学博士。現在、同大大学院医学研究科教授。『精神医学の概念デバイス』(創元社)など。

(注2)講談社、2023年。著者の阿部公彦(あべ・まさひこ)は1966年生まれ。東大文学部教授。英米文学研究。『文学を〈凝視する〉』でサントリー学芸賞受賞。