うどん二郎のブログ

95年生/横浜/写真

ライツ! カメラ! ストップ!

私は写真が三つの実践(三つの感動、三つの志向)の対象となりうることに注目した。すなわち、撮ること、撮られること、眺めることである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ここに読まれようとしているのはバルトの言葉のとおり、写真をめぐる、とくに驚くに値しないこの三つの実践が、ほかの諸芸術とどう絡みあいどう分離されているのかをささやかに思考したテキストである。

たとえばごく私的に親しいひとへカメラを向けるとき、被写体は明るい場所で止まっていることを期待される。笑っていても無表情でも、おどけたポーズをとっていても、照れて顔を隠しても、身体は一瞬固定される。ブレを逆手に取った『プロヴォーク』のような写真表現はたしかにあるが、それでもオーソドックスに「静止」は撮られるときの第一条件であろうと思われる。もちろん撮る側もブレを最小限に抑えることに集中するだろう。鮮明な写真を撮るには、三脚を使うのがより好ましい場合すらある。画面が止まっていることは、映画ならアクションと音がないゆえに退屈だし文学ならページをめくり読み進められないという意味で致命的である。ここで絵画と写真は近接する。

にもかかわらずいまから展開したいのは、映画や文学ではなく写真固有の、おそらくはそのもろもろの制約によって生ずる特異性についてである。こういってよければ、写真を見るときに無意識的にでも鑑賞者が着目する点を、ときどき当たり前のこととの批判を受け入れながらピックアップしていきたい。

映画に親しんだ者ならば作中に写真的なカットを見出すのはたやすい。美的にすぐれた構図、光の差す角度、色調、俳優の顔、目線。ある特定の瞬間に、映画の時間的持続から離れてふとうっとりするような写真的カットが現出する。俗にいう「捨てカット」などは事物が動いていない場合も多く、次の「動き」に期待がかかる瞬間でもある。

しかしそれはあくまでつぎのカットへの緩衝材にすぎない。物語の起伏をつけるために、もしくは舞台を立体的に見せるためのほんのひとつの手段として用いられているばかりだ。物語的経済性を考慮に入れるならばあくまで人物どうしの会話や移動、動きのある事件、ラブシーン、裏切りなどをテンポよくつなげていき、それらが美的な、緊密な枠に収まっていたとしても従事するのは物語だし、あるいはそれらのバランスを観客は判断している。すなわち映画における写真的センス(光、構図、色……)は、時間性という映画最大の特徴のなかにあって、ひとつの要素にすぎない。

ことは文学にもかかわる。たとえば保坂和志は『小説の自由』でこのように述べる。

情景とは視覚であって、視覚は一挙的・並列的であるために、文字という順次的・直列的表現で再現するときに、書く方はもちろんのこと読む方も手間がかかることになる(・・・)

保坂は「小説とはまず、作者や主人公の意見を開陳することではなく、視線の運動、感覚の運動を文字によって作り出すことなのだ」と続け、まずもって、現実の情景と、それを文字にして描写することに隔たりがあることを指摘している。言葉で出来事なり事物なりを描こうとするとき、映像と異なって、そこには一見して全体を見渡せないという制約がつきまとう。細部の積み重ねによってしか、対象を把握できない。いうまでもないが、散文は、文字が「順次的」に連なっている。言い換えれば、語と語、文と文が〈隣接〉している。そしてそれらは少しずつ、次へ次へと読まれる。とすれば散文という場では、その長さと、「順次的」にしか言葉が読まれないという制約ゆえ、基本的に読解では〈隣接〉性が問題になるのではないか。

ここで目線の動きの問題が出てきた。テキストを辿るときの理解は順次的・直列的に行われる。このリニアな運動は、その作品を読解しようとすれば避けられない。対して映画の場合は時間の持続が向こうからやってくる。放っておいても話は進むし音楽も流れる。しかし画面にいま誰が映っているのかを判断するには一目で足りる。一挙的・並列的である。

写真は、じっとこちらから見るしかないのである。しかし見るというなかにも、複雑な目の動きがなされている。一枚の写真を見るとき、つねにひとつの画面を把握するために、無意識に目を細かく動かし、いろいろなところを連続して見ながら全体を把握している。先ほどの例でいえば、パッと一見したときは一挙的・並列的なんだけれども、全体を鑑賞する段になって「離散的」とでもいえそうなバラバラなまなざしを注いでいそうである。このような非=中心的なまなざしは、個人の趣味嗜好によって「突き刺してくるもの」(「プンクトゥム」©︎バルト)がちがうということの根拠になっているようにも思われる。要するに、だれが、どこに惹かれるか、事前にはわからないのだ。

平面ということでいえば松浦寿輝は『平面論』の中で「イメージ」の特徴について次のように述べている。

「等距離性」とは、先にも触れたように、遠さと近さの弁証法の消滅という事態を指している。「イメージ」は、遠くにあるものを近づける。現実の距離は無化され、遠いものも近いものもすべて同水準ののっぺりした平面の上に並ぶこととなるだろう。

写真がシュルレアリスムと親和的であったのも、デペイズマンの手法が、つまり異質なもの同士が「同水準」になる平面の上で出会うことが容易だったからだろう。そうでなくても、撮ったものは手元にくる。目の前にある。まさに「窓」としての写真。つづけて松浦はもうひとつ特徴を挙げている。

「再現性」とは、唯一性と一回性の消滅のことであり、複製技術による際限のないコピーの増殖を通じて独創的(オリジナル)なる起源(オリジン)という概念そのものが希薄化してゆく事態を指している。

念頭に置いているのはベンヤミンであろうが、これはメディア論の基礎的な確認事項であり写真は本丸中の本丸である。ここで、鑑賞において「静止」性で似通っていた絵画と写真は袂を分かつ。

ところでPhotographという言葉は、本来「光で描く」というニュアンスだそうだ。日本に写真が輸入された当初は「光画」と訳されることもあった。光ーーつねに肉眼で捉えそこなうもの。小林康夫は「光・顔・時間ーー写真は截断する」(『身体と空間』)で次のように述べる。

わたしたちはつい忘れてしまうのだが、シャッターとは、構造上も、まさに截断する刃にほかならない。それは、時間の流れ、光の流れを文字通り断ち切るのである。

写真を見るとは、時間のなかではけっして見えないこの光、もはや人間のものではないようなこの溢れる光を見ることだ。

カメラが「溢れる光」を定着したその技術論的転回の裏側では近代絵画が抽象画に向かったし、なにより「芸術家のための資料」といってアジェがパリの街を撮った写真を画家たちに売り捌いていた。光をどう表現するか。写真の登場で止まっている光を、物質としての光を、印画紙に、たえず近づきつつもたちどころに離れていって掴みそこなってしまうものとして定着しえたのである。

これは鑑賞においてはテクスチャーの問題である。伊藤俊治『増補20世紀写真史』では写真と物との関係を短くまとめている。

写真は物質である。

写真には、写真だけの、独特の奇妙な力、物性がある。

物からの眼差し、世界が人間をひっくり返し、人間を超越したものとしてあらわれてくる。

我々の自己はむきだしにされ、物質の細部や質感によって傷つけられ、貫かれ、刺され、えぐられ、まだらをつけられてしまうのだ。

写真の物性。写真自体が物であるということ。さらに写された物も、こちらを見返しているというのだ。手触りが、〈遠さ〉と〈近さ〉の関係を超えてこちら側に迫ってくるような、そんな石内都のような作品もある。

タイトルに掲げたのは、原則論である。というか、おおむね展示されている写真はこのように撮られているのだなと、つまり、光を調節し、カメラを構えて、被写体が止まるところを狙う……。だから、見るときもこのように見たい。光はどこからどれくらい差し込んでいるのか?  どの位置から撮ったのか?  被写体は直前までは動いていたのか?  ポーズは?  などと。複雑なテーマ設定の作品でもアプローチはシャッターを切るという古典的な動作からはじまっているわけだから、それを追跡するように思考をめぐらしたい。