うどん二郎のブログ

95年生/横浜/写真

山崎団地で会いましょう

 

地図を見てみよう。形でいえばちょうど町田市の重心が真ん中にくるような位置に、3920戸を有する山崎団地はあった。足を踏み入れれば気圧される敷地の広さに多摩郊外の団地のなにか核心があるように思われる。たとえば「2-7」などと割り振られた住棟の番号は、つまり街区-号棟に対応しており、ある土地に人間が集まって住むうえでの計画性というものが伺われる。町田駅からも古淵駅からも徒歩で行くにはほど遠いこの場所は、しかしいちど着いてしまえばスーパーも銀行も図書館も飲食店もぐるっと巡ることができる。こともあろうに自動車で来ることを忘れてしまったひとは、乗り入れ数都内最多の路線バスを使えばまったく頭を煩わせることなくその地にたどり着けるだろう。

べつに特別なものがあるわけではない。でも試みに、建設主のUR都市機構のホームページ(注1)から惹句を見つける。

春には商店街の木にコゲラが巣をつくり子育てをしている姿が見られます

団地内にはそれぞれ三つの保育園と幼稚園があり、学校も隣接しています。医療機関も敷地内に「ふくいんクリニック」などがあり、毎日の健康もサポートできます

読まれるとおり巣の「コゲラ」が草花に囲まれて子育てをするひとつの空間で、じっさいにひとの子が生まれ育ち、あるいはほかの団地と同じく多くの高齢者が暮らす。喚起されるのは共同性と時間性である。

1968年。闘争の季節、高度経済成長のさなか公団の大量供給期にあったマンモス団地のひとつとして町田山崎団地は建てられた。翌69年からこの団地に住み始めた北海道出身の作家・八木義徳は終生ここで暮らし、88年発表のエッセイで当時をこのように振り返っている。

3Kという狭い公団規格のわが家では、余分な本を置いておくだけのスペースはほとんどない。

その四階のヴェランダからは、棟をつらねた団地の家並みを通してはるか西南方に丹沢山塊が望まれる。

ヴェランダの下から、ふいに歓声があがった。学校が退けて子供たちが帰ってきたのだ。かれらはいったんそれぞれの家に引き上げて、母親の用意したおやつを食べ終えると、すぐまた手に手に遊び道具をもって外へ出てくる。そして三人四人と別々の組になって、メンコあそびやコマ廻しやボール投げをはじめる。

(「春の泥」八木義徳全集5巻)

ある意味ではこれは貴重な証言である。20世紀の山崎町2200番地山崎団地2号棟2番403号から見える風景というのは、このようなものであった。しかしその成り立ち、つまり1970年前後というのは、町田市元市長・大下勝正『町田市が変わった』をひもとけば、意外にも複雑だったことがわかる。

公団は住宅戸数の増加を急ぐあまり、住環境や都市機能の整備はほとんどといってよいほど無視していた。そこで、たちまち道路、交通はまひして通勤地獄をひきおこした。

団地住民の不満は鬱積していた。

同書では団地急増の裏側で都市の機能低下が起きていたと説かれる。そのような背景をもってまとめられたのが1970年の町田市団地白書『団地建設と市民生活  町田市の新しい出発のために』である。

続々と進められる住宅団地の建設ーーいまや、町田市は全国一の団地都市となった。

しかし、それは都市の無秩序な急膨張にほかならなかった。そのなかで町田市は住宅都市としての機能を著しく低め、市民の日常生活はさまざまな不便に悩まされている。

本白書では、そうした数々の問題のなかから、当面緊急に解決されなければならない課題についての提言を行なった。

「当面」の緊急的な課題は人口バランスや働き方の変化などでいまやすこし変わったように思える。さきに述べた共同性と時間性とは、55年の歴史をさりげなく見てみて、そのコミュニティのありかたや団地自体に時間が流れたということだ。

そのまわりを囲む町田という空間はではどんなものだろうか。東浩紀北田暁大『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』の対談の中でこのように北田は述べる。

北田:八〇年代に座間という新興開発の県央地域から藤沢へと移り住みはしましたが、基本的に国道16号線的な風景は所与の前提だったわけです。町田が近隣の都市のなかではもっとも大きい都市であって、町田とその衛星都市を結ぶラインは多かれ少なかれ国道16号線的な風景になっていた。シミュラークル的な広告郊外というよりは、まさしくジャスコ的な郊外。

基本的に電車を移動手段の前提としているのだろうが、東急沿線的な「広告郊外」の趣きは町田の中でも南のエリア、つまり南町田(いまは駅名は「南町田グランベリーパーク」)が主で、駅周辺部の繁華街、そしてじゃっかん距離はあるが山崎団地は「国道16号線的」=「ジャスコ的」な郊外という雰囲気を帯びていそうだ。

『布団の中から蜂起せよ』を22年に上梓した町田市出身のライターでアナーカ・フェミニストの高島鈴はウェブ連載「巨大都市殺し」(注2)で、町田市に住んでいた頃のことをこのように振り返っている。

実感として存在するのは神奈川の町田でも東京の町田でもなく、川を挟んで隣接する神奈川県相模原市と町田市が融和して形成された「町田・相模原」という固有のエリアだ。町田駅前に、相模原市の人間も町田市の人間も、「町田に行く」と言って出かけていく。

全体図としては駅周辺が人流の集合地点、それから町田・相模原、あるいは座間、藤沢その他が衛星都市ならぬ「衛星街」とでもいうべきか。そのうちのひとつに、それにしては巨大な山崎団地は位置付けられる。

いまふたたび山崎団地を訪れたのは筆者がこのような巨大な居住空間に久しく行っていなかったからだ。もちろん家の中に入れるわけではないけれど、それでも「外」であり同時に「内」でもあるような敷地内に生活の切片が落ちていないか探しにいった。そしてわずかばかりの記録をここに残しておく。f:id:udonjiro:20230304154753j:image
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(注1)UR都市機構「町田山崎」「住まいリポート」町田山崎住まいリポート(東京都)|関東エリア|UR賃貸住宅

(注2)高島鈴「巨大都市殺し」第一回(柏書房のwebマガジン、22年)巨大都市殺し|高島 鈴|かしわもち 柏書房のwebマガジン|note