うどん二郎のブログ

95年生/横浜/写真

日付と場所からの発想ーー報道写真小論

 

さる2022年7月9日朝の日本の活字空間には、「安倍元首相撃たれ死亡」という大きなカット見出しがどこもかしこも一言一句たがわずに支配していた。これはけっして誇張ではなく、いわゆる五大紙と呼ばれる大手全国紙がその日、かかる10文字を正確無比に揃えてみせたのだ。事件とは、興味の対象がふつう起こりえない変化を生じさせたとき、あるいは興味を寄せる人間の数の多さでその重要性が決まる。ここではもはや翌日の朝には誰もが驚愕し尽くしていたであろう「犯行」が取り上げられているが、むしろ驚くべきは「新しい報せ」が、そのときにはすでに全員の共通理解にすらなっていたことであるかもしれない。

ここでメディア論的な主題を展開したいわけではかならずしもない。ただあらかじめ多くのひとにとって既知の事件が、どのような写真とともに活字で世に放たれるのか、イデオロギーも規模もことなる媒体が、同一の主題をめぐって、どのように紙面を凝らすのか気になっただけである。だからとりあえずテキストとセットで紙面に提出される写真を「報道写真」として論じていくことにするが、あくまでこれは小論として書かれるもので、網羅的に分野の全体を見渡したものではないことをことわっておく。

一般的に新聞記事の本文は「逆三角形」型で書かれる。つまり重要な情報から順番に書き始められ、枝葉の内容が最後にくるというものである。骨子は見出しに集約される。報道写真はおおむね「主語」「述語」「時間」「場所」などのどれかがわかりやすく写される。報道内容を視覚的に伝えるためである。出来事の全体を明らかにするものであるが、ときに選挙当選時のバンザイのようにカメラ記者が候補者と交渉して手を上にあげた状態で静止してもらう作為的なものもあり、こうした作為性はニュースを象徴的に伝えるものとして利用される。ただし、ときにこのような「ヤラセ」やトリミングなどの編集は政治的な意図を帯びることを念頭に置いておいてもよいだろう。

ところで写真批評家でもあった中平卓馬は『なぜ、植物図鑑か』の第二章「日付、場所、行為」でジャーナリズムの語源に触れてつぎのように記す。

ジャーナリズムがたとえば、仏語のjour(日、日付)などと語源を一つにし、そこから派生してきた言葉であることを考えあわせる時、それは別の視角からの検討を要求してくる(...)。

それは「日付主義」ということになるのではないか。

「日付主義」というのが何やら判然としないならば、すべての人間の活動を「いつ」「どこで」という日付の限定を前提とした、一つの思考方法、さらに言えばそのような日付に根ざした思想を本来、ジャーナリズムという言葉は内包していたのではないかということなのである。

この文章自体は後半で日本の全共闘運動に言及しており、日付や場所などによって限定された存在が、しかしより普遍的な存在へと至ろうとすることを「プロセス」としてとらえ大きなうねりとなっていくのではないかと説かれている。結局運動自体が頓挫してしまっても本質はそのようなものではないか、と。引用では「日付主義」という独特な語が用いられているけれど、引用者はほかでこれが使われているところをみたことがないから著者の発明ではないかと推測している。ジャーナリズムの魅力的な言いかえと響くこの語だがその意味するところは深い。膨大で捉えきれない世界を区切って、時間も場所も特定してはじめてすこしずつ思考が開始される。ほんらい動的な世界を一望できるすべはなく言葉でもイメージでも断片が蓄積されていってその時そのときの全体像がぼんやり浮かび上がってくるにすぎないのではなかろうか。とくに写真の四角いフレームはきわめて限定されたものだしそこで切り取られるのはものごとのかけらでしかありえない。さらに日付と場所まで特定してやっとニュースは具体性を帯びてくる。

いっぽうで写真の美学が専門の村上由鶴は『POPEYE』ウェブ記事「ハッキングされているのは写真でありわたしであるー純粋に写真を見れると思うなよ」(連載『おとといまでのわたしのための写真論』)で写真とそのコンテクストについてこのように述べる(注1)。

どんなに静的に見える写真であっても、ハッシュタグや新聞などといった写真のコンテクストにハッキングされる意識(への意識)と、写真をハッキングするメディアや場所が負うコンテクストの濁流の中でダイナミックに動いている。独立自尊で写真を見れると思ったら、大間違いなのです。

SNS時代の写真、とりわけニュース写真がシェアされるときにはコンテクストが伴う。日付主義的な唯一無二の写真に色をつけ新聞雑誌が置かれている社会的な立ち位置、もっと大きいのは個人のアカウントがどんな反応の言葉を添えるかである。この場合イデオロギーをもとにした連帯の道具として象徴的な写真を選んで、言葉とイメージの関係をより強固に結びつけようとさえするだろう。このコンテクストに関して、ロラン・バルトは「写真のメッセージ」(『映像の修辞学』)でわれわれが受け取る情報について「報道写真はメッセージである」と書き始め、続く文章で事態をきわめて簡潔に指摘している。

(…)写真の構造は孤立した構造ではない。少なくとももう一つ別の構造、すなわちどの報道写真にも必ず備わっているテクスト(見出し、キャプションあるいは記事)とつながっているのである。

情報全体は異なる二つの構造に支えられていることになる。(…)一方(テクスト)においてはメッセージの素材は言葉であり、他方(写真)においては線、面、色調である。

では7月9日朝刊の一面に掲載された本文とわれわれに差し出された写真の関係はどのようなものだったか。試みにまず朝日新聞を一瞥すると死亡直前に演説をしている安倍晋三の縦位置の写真が一番上に配置され、その下に三分の二ほどの大きさで山上徹也確保の「動的な」、あるいはこう言ってよければその「決定的瞬間」が捉えられている。読売新聞はカット見出しの下の真ん中に搬送される元首相が横たわりその横に救急車の白い車体、大勢の関係者が本人を囲んでいる写真が大きく配置され、下に容疑者が押さえられている写真と演説中の元首相の小さな顔写真が掲載されている。毎日新聞はおそらく銃撃直後、道に横たわって支援者や医療関係者であろうひとたちに囲まれる写真が、端のガードレール込みで写っている。産経新聞は一番大きい写真がガードレール横で応急処置を受けぐったりしている元首相と支援者たち、その横に小さく二つ演説中の写真と容疑者確保の写真。日経新聞と、これは地方紙だが東京新聞は演説中の写真のみだった。もうひとつ地方紙を挙げておけば神奈川新聞も演説中の写真だったのだが、背後に山上容疑者が写り込んでいる、不気味な写真をトップに大きく持ってきた。

すべての主見出しに共通していたのは「演説中」の語彙で、重要度からいえばカット見出しの「死亡」のつぎに「演説中」がきていることになる。しかし当然のことながら銃撃された瞬間を捉えた写真はない。朝日日経東京は生前最後の演説中の写真であり毎日読売は倒れている写真、産経は両方載っていた。カメラは、真の意味で決定的瞬間を見過ごしたわけである。毎日読売産経の倒れている写真にもまた血は写っていないわけであり、配慮がかいま見える。紙面から伝えられるメッセージとは「安倍晋三は直前まで生きていた」ということであり、「そして死んだ」ということにすぎない。

むろんこれはバルトの言葉も踏まえている。

たしかに映像は現実のものではない。しかし少なくともその完璧なアナロゴン[アナロジー、相似物]であって、常識的に写真を定義するのはまさしくこの類似の完全性なのである。(前掲書)

「類似の完全性」、完璧に現実にちかいこと。オブジェと映像のあいだに中継物が入る必要性がない、つまり「写真はコードのないメッセージである」。だからいっそう起こったことの生々しさが際立ってくる。「これ」、が起こった。それは取り返しがつかない。ふつう道路に横たわって救命処置を施される瀕死の政治家の写真など見かけない。その途方もなさに、動かない写真はわずかなことしか応えてくれない。残された手がかりはやはり日付と場所ということになるだろう。7月8日昼の大和西大寺駅前。

ちなみに、先の毎日新聞の写真を撮った同社奈良支局の久保聡氏は「2022年報道写真展」で新聞協会賞を受賞している(注2)。体は横たわっていて、胸元から流れているであろう血は、しかしジャケットに隠れ、見えている部分も加工を施されている。「騒然とする現場で、瞬時の判断によりスマートフォンを使って至近距離で撮影した写真は、凶弾に倒れ、横たわる安倍元首相の表情を克明に捉え、事件の衝撃を伝える象徴的な一枚となった」(展示より)。たしかに死にゆく大物政治家の弱りきった表情を伝えてはいる。いっぽうで朝日新聞の容疑者確保の瞬間を捉えた同社上田真美氏の写真も展示されていて、正確にいえば紙面の一面に載った写真ではないのだが、こちらはむしろ見る者をかき乱すかのような激しい写真に見える。なぜならそれはSPの男が全速力で容疑者を捕まえようとしているのがわかるからであり、彼らのジャケットは大きくなびいている。だが、向かい合う二人の視線を同時にひとつの画面に収めることが不可能なように、けっきょくこのときの読者は、背後に容疑者が眺めている神奈川新聞のような例をわずかにのぞいて、別々の一枚で事態を把握するしかない立場に置かれている。

だからいまいちど注意をしておかなければならないのは、独立した一枚などどこにもなく、またその一枚とは、もともとは「沈黙」したものであるということだ。それは眼の論理だからである。にもかかわらずひとは目撃してしまったとき、饒舌にならざるをえない。並べられた写真たちを紐づけ、普遍的で抽象的な問題を語ってしまう。ただ、事件が過去のものになったとき、くどいようだがまず立ち返るべきは日付と場所であろうということを、銘記しておく。

(注1)連載『おとといまでのわたしのための写真論』/ハッキングされているのは写真でありわたしであるー純粋に写真を見れると思うなよ/文・村上由鶴 | POPEYE Web | ポパイウェブ

(注2)日本新聞博物館「2022年報道写真展」(2023年1月7日〜4月16日)