うどん二郎のブログ

95年生/横浜/写真

「光・顔・時間」紹介

仏哲学者・小林康夫の短いながらも鋭い写真論「光・顔・時間ーー写真は截断する」(『身体と空間』)を紹介する(注1)。

この7ページほどのテクストはある作家や作品を具体的に取り上げた批評というより、写真の存在論とでもいうべきものである。「あるいは写真とは、本質的に不幸なものなのではないか」。はじめにそう問いを投げかけてから小林は論を進めていくのだが、しかしすべての「楽しい写真」を否定しようとしているのではなかった。その楽しさは、「それ[写真ーー引用者]が指示している過去の出来事」によって喚起されているだけで、そもそも写真自体については誰も語っていないのではないか。つまり、「写真は孤独なのである」。

ではなぜそういえるのか。かりに、写された出来事についての記憶を語れる人がいなくなった場合を想定してみればよい。とたんにその写真は「外」に放り出されてしまったかのようによそよそしいものとなる。記憶の外に追放された写真。その時点で、写真があるということは「なんと戦慄的なことだろう」と小林は驚く。これほど時間から引きこもっているものが、この世界に溢れているからだ。

同時に、かつて写真にはじめて接した人々がそれを不吉なものだとみなしたことを、ある種本質的なことなのではないかと付け加える。「魂を抜き取られてしまう」という素朴な表現で、人々は、人間が時間との新しい関係を生きねばならなくなったと伝える。「生きるということは、時間に沿った運動である」。ところが写真は、その流れからつねに取り残されてしまう。それはむしろ時間を「截断」してしまうのである。

小林は写真のこの「秘密」を、シャッターが構造上もまさに「截断する刃」であるという比喩とともに銘記する。「わたしたちは時間を截断するようにして事物を見ることはできない」。だから写真は、絵画とも映画とも袂を分かつ。「非=人間的」ともいえる写真の眼差しを、人間の眼差しに置き直して、それを対象の再=現前としてみるべきではないのだろう。時間の流れから断ち切られたその切断面はみずみずしい光に満ちている。写真を見るということは、「この溢れる光を見ることだ」。

それからベンヤミンを持ち出して、逆にこれが写真のアウラなのだと断じる。ベンヤミンは複製技術におけるアウラ消滅を論じた(「複製技術時代の芸術作品」)。たとえばある夏の日の午後、「山なみ」や「木の枝」に沿って目線が移動し、その運動のなかで幸福のアウラが呼吸されるいっぽう、小林は、写真には不幸のアウラとでもいうべきものがある、と。それは「ガラスの破片のように鋭い光」である。眼差しはもはや、対象との距離をはかって、それに沿ってゆっくりと時間を呼吸することを許されてはいない。写真に写る光はむき出しのまま、以後、けっして取り戻されることがない。写真のアウラは残酷なのだ。

小林のこの一見抽象的な写真論において、具体例として一枚だけ写真が挙げられている。それがニコラス・ニクソンが撮った「ブラウン姉妹 1975年」で、若い四姉妹が横並びに写されているのだが、これが「光」と「時間」に続く三つ目の主題「顔」にかかわってくる。取るに足らない写真なのだけれど、さらにわたしたちは、この四姉妹のことを何も知らない。しかし「そこで女たちの顔は、むき出しになっている」。たしかに、ライティングによって顔がはっきり見えるように写されてある。

それだけではない。〈顔〉とは、生の断面であり、写真には、その「残酷な実質」が、光の粒子として定着されているのだ。さらにもう一歩踏み込んで小林は、「それこそが、すぐれた写真がすべて限りなく〈顔〉に近づいていく理由であるだろう」と述べる。というのも、そこで「人間の顔」と「写真」の特徴が、ぴったりと重なるように二重写しになっているからだ。どちらにおいても、「むき出しの断面」が、わたしたちの眼差しをずたずたに切り裂こうとしてやまない。

ここまで記してきたことは、大げさだろうか。実際小林は写真内部におけるジャンルというものをあまり考慮していないようだし、収録されてある本が出たのも95年で、デジタルカメラが普及しているとはいえない時期だった。写真史のさまざまな潮流をいったん傍に置くような態度には、良い意味でも悪い意味でも純粋さを感じる。

けれど、原理に立ち戻って、写真というメディアのそもそもの性質に着目する視点は持っておくべきだろう。小林はその論点から切り込み、この世界に写真があるという忘れがちな、それでいて「戦慄的な」事実を思い起こさせてくれる。三題噺として書かれたこのテクストの三つの主題に、「截断」という串が入ることによってぎゅっとまとまったものになる。

ここまで性急に走り読みしていったけれど、応用が効くテクストだと思う。唐突に始めた紹介だったが、議論の骨子の説明と補足だけして、終わりもここで唐突にしておこう。

 

*注

(注1)小林康夫:1950年、東京都生まれ。74年に東大教養学部フランス科卒。76年同大学院人文科学研究科比較文学比較文化博士課程修了。78年パリ第10大学留学、81年博士号取得。東大教養学部で用いられた船曳建夫との編著『知の技法』が有名。『身体と空間』は1995年、筑摩書房刊。