うどん二郎のブログ

95年生/横浜/写真

むしろ港へ

滝口悠生の短編「すぐに港へ」にあやかってタイトルを「むしろ港へ」としてみたのはさいきんの登山・キャンプブームへのとくに深い理由のない反発というのもあるが、それよりも海と船が見える景色が好きだからというのがほんとうのところだ。山頂からの景色は我慢を重ねて険しい道を登った先にしか見えないものであるけれど、港は車でも電車でも気楽に行ける。楽しみ方も「発散系」というか、気分が晴れて空気が広がっていくような、それでいて続いていく海の先に思いを馳せてむこうの土地への憧れを溜めこむこともできるものだ。

山頂からはすぐ戻れないが、港はすぐ戻れる。この気楽さに惹かれているのかもしれない。音もある。ザーッという波の音や汽笛を聞いていると心がほぐれる。

家からいちばん近い港は横浜港である。


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横浜市歌(1909年)の作詞は森鴎外で、「されば港の数多かれど/この横浜にまさるあらめや」とすさまじい持ち上げっぷりである。当時は近代の幕開けで文明の発展を支えた土地(港)にプライドを持つことが、より高次の発展・進歩につながっていったのだと思う。もちろん鴎外が念頭に置いていたのは「西欧列強」で、競う相手は国外にあったわけだけど、それがいまでいう「シビック・プライド」(地元愛)を醸成して、100年も残っているのを思うと「アンセム」というのは力があるなと驚く。じじつ、いまでも筆者は歌えるし、「ハマっ子」は歌える割合が高いのではなかろうか。

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ただ今の横浜は貿易港としての役割はそこまででもないらしく、おそらくは、もっぱら過去の遺産をつないできた観光地の面が大きいのだろう。そして山下公園から見えるのは遥かな東京であって、太平洋ではない。だから昼も夜も海に映るのは白いビルのシルエットだ。ぼんやりと立ち上るそのかたちは、小さな陶器のように美しい。

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翻ってこの夏訪れたのは大磯港だ。こちらはとても閑散としていて、ちらほら釣客が散らばっているぐらいだった。太平洋も見渡せる。水平線が綺麗に真一文字に伸び、広々と感じる。

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一緒に来た友人はハロー!プロジェクトの限定ユニットL!ppの『Sunset Summer Fever』のMVを見て「夏」を感じたかったらしい。同感だ。ここには駐車場があるから車で来ても気楽に停められて良い。神奈川の海岸線をラジオや音楽をかけながら走るのも心地いい。

街の中に港があるのはどんな気分なんだろうか。交通手段として常用するというわけではないにしても、すぐ近くに、どこか遠くに通じているところがあるというのは。

安岡章太郎『海辺の光景』の冒頭はそういえばこう始まっていた。

片側の窓に、高知湾の海がナマリ色に光っている。

初夏の話だが、筆者は冬に海に来ると「ナマリ色」に見える。思えば港は、そこで泳げるわけではないので、ただ佇むほかない。

それにしても同じ「港」でも空港はまったく行かなくなった。コロナ禍になる前に韓国に行ったのが最後だが、つぎにほんとうに気兼ねなく海を渡れるのはいつになるか。

 

方法と文脈ーーアレック・ソス展のごく短い感想

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アレック・ソスの写真展「Gathered Leaves」(神奈川県立近代美術館 葉山、2022年6月22日-10月10日)を見た。ソスは1969年アメリミネソタ州ミネアポリス生まれの写真家。日本での個展は同館が初となる。同展はソスがアメリカを題材とする5つのシリーズ〈Sleeping by the Mississippi〉〈NIAGARA〉〈Broken Manual〉〈Songbook〉〈A Pound of Pictures 〉で構成される。ここでは筆者が抱いた所感をごくかんたんに記す。

f:id:udonjiro:20220917041748j:image写真展の様子

ソスはそもそも、世界を代表する国際的な写真家グループであるマグナム・フォト(Magnum Photos)の所属で2010年代に世界的に評価を得た。写真史の全体像を概括的に示した鳥原学『教養としての写真全史』(2021)では、彼には「フォト・ジャーナリストに限定されない写真史の成果が引き継がれている」と評されている。ソスの主なテーマは、彼自身が属するアメリカのローカルな文化であり、最も豊かな国のイメージに隠れた孤独と疎外、文化の特殊性と普遍性のどちらをも浮かび上がらせるものであろう。「その静かな印象は、大型カメラとフィルムでの撮影から来るもので、オーソドックスというよりは古典的ですらある」(鳥原)。

ソスの特徴は柔軟かつ緻密に組み立てられた「方法」だろう。まず撮る写真のコンセプトを練る。そしてキーワードをメモして車のハンドルに貼り付ける。それから旅をするというわけだ。カメラ機材もスナップ用の手持ちカメラではなく、三脚に載せた8×10のフィルム用大型カメラを使う。つまりやり方がかっちりと頭の中にあるのだ。「枠」が決まっているというか、旅をしていくなかでそこに当てはまった被写体とときに偶発的に出会いながら、撮影を行なう。

f:id:udonjiro:20220917041937j:image〈Sleeping by the Mississippi〉より

ソスの写真には、長時間構想を練られたものだからか、厳密なフレーミングやライティングを意識して撮られたものが多いと思われる。そのようにして光景は切り取られるわけだが、一方でそれらの写真同士の「文脈」も考えなければならない。〈Sleeping by the Mississippi〉や〈NIAGARA〉にはミシシッピ川やナイアガラは出てこない。あくまでその街の、人物や風景を写している。しかしそれらを並べて見ると、不思議に街の静謐な雰囲気が感じ取れるのだ。これは一枚だけ見ても感じ取れないだろう。キャプションやパートごとのコンセプト(人物だけを写したパートや白黒写真のパートもある)を理解し、何枚も見て行くうちに、だんだんと鑑賞者にいくつかのイメージが湧き上がってくるような、そのような写真たちである。適切な位置に写真を配置することによって相互に文脈が生じて、そこからコンセプト全体が徐々に浮かび上がってくる。

f:id:udonjiro:20220917042052j:image〈A Pound of Pictures 〉より

写真は記録か表現か、という議論があったのを思い出した。ソスの写真は、方法としては表現の写真を撮ろうとしているけれども、表出されるのは記録的な写真なのではないか。あるいは、それがそのときのコンセプトで不意に逆転するような、そんな柔軟さ。

ソスが好んだというロケーションについてもすこしふれる。

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館の裏にはすぐ海があって、中からでも窓越しに海を望める。山も近くにあり、山と海に挟まれた格好だ。同館に関していえば、カメラという荷物をわざわざ持って行っても、展覧会に触発されるようにして、あるいは反発して、海や山が撮影できるというのは面白いのではないか。

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アレック・ソス「Gathered Leaves」

神奈川県立近代美術館 葉山

2022年6月22日-10月10日

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/exhibition/2022-alec-soth

写真史のための自己言及的資料

 

以下に、筆者が撮影した写真を写真史に紐づけてその性格を論じるということを試みる。ほんとうは写真史において重要な作品を取り上げて紹介してもよかったのだが、そのような内容のテキストはすでに数多く書かれてしまっているし、権利関係もいまいちクリアできるのかどうかわからなかった。なるべくバランスよく写真を選んで、一枚一枚から見えてくるものを分析したい。ここでは撮影した意図は極力排して論じる。

前提として、写真は「組織された時間、組織する時間から限りなく引きこもって」いて、時間に沿った運動・流れを生の原理だと定めるならば、そのような「生き生きとした流れから、つねに取り残されてしまう」(小林康夫「光・顔・時間ーー写真は截断する」)(注1)。つまり肉眼に映る映像と写真の映像は「動き」という点で決定的にことなっている。

小林は写真の特異性を、限りなく厳密な再現性にも、反復可能性にも見出してはおらず、その截断性に見出している。そのじつ、「わたしたちの眼差しは、つねに物語の可能性に濡れて、運動するイメージとしてしか、世界を見ることはできない」が、写真の「非=人間的なイメージ」は光も時間も截断するようにして事物を捉える。「断ち切ったその截断のイメージ」は、「わたしたちの日常的な眼差しが危うくなり、解体される危険」があるものである。これはスポーツ写真を例にとればよくわかるが、事物が止まって見えるということは人間の眼には起こらない。この静止しているという状態こそが、写真というジャンル固有のものなのだ。

f:id:udonjiro:20220907201017j:image図1

これを踏まえるならば、まず思いつくキーワードは「決定的瞬間」であろう。フランスの写真家アンリ・カルティエ=ブレッソン(1908-2004)の写真集『決定的瞬間』(アメリカ版『The Decisive Moment』からの訳、1952年)のタイトルとして有名になったこの言葉は、いうなれば「絶妙なシャッターチャンス」のことである。写真評論家鳥原学『教養としての写真全史』(注2)ではカルティエ=ブレッソンの写真の特徴を「幾何学的に調和のとれた構図」に見出しており、「とるにたらない些細なものが、写真では重要な主題になる」「私たちは、私たちのとりまく世界を見つめ、それをある種の証として見せる。フォルム同士が互いに織りなす有機的なリズムは、出来事の事件性をきっかけに生まれる」との本人の言葉を紹介している。一瞬の動きを厳密な構図でふわっと切り取るその美学は、まさに「逃げ去るイメージ」(フランス語版『Image à la sauvette』の日本語訳)を捉えたものである。

図1にはカルティエ=ブレッソン的な主題が垣間見える。中央からやや右下に位置する人物が、画面からは見えないゴールらしき場所にバスケットボールをシュートしている瞬間である。ボールは左上に向かって放たれているようで、その姿はすこしブレている。人物を囲むようにして樹々が生い茂っており、なんとなく四角に囲われているようである。曇りの日に撮影されたのか、画面が白いのも特徴的だが、全体的に明るい雰囲気に見える。人物の服装も白色と、ボールとの対比もある程度明確である。シュートされた一瞬を捉えた一枚だ。

このような撮影スタイルをスナップショットという。「小さなカメラで気になる対象を撮影する」もので、「最も簡便な記録であり表現手段である」(鳥原前掲書)。東京工芸大学芸術学部写真学科で教科書として用いられている『写真の教科書』(注3)では、スナップショットを撮るさいに「シャッター速度を操作することによって、鑑賞者にさまざまな動きの印象を与えることができます」「ブレを上手に利用すると、被写体や撮影者自身の動きを表現することができます」と、ポイントが記されてある。

小林康夫の著作に戻ると、「写真的経験とは何か」(注4)で、「(写真には)特権化された瞬間はない」「時間は正確に特定化されている」「一枚の写真は、ある一定の条件のもとでの世界の一状態である」と述べられているが、これはスナップショットの本質のようである。つまり、瞬間の特権化ではなく、特定=決定化することによって写真は肉眼から区別される。世界の時間的連続からたまたま抜き出された一状態が、要するにスナップショットということなのである。

写真史上には、フランスのジャック=アンリ・ラルティーグ(1894-1986)やアメリカ・ニューヨークのヴィヴィアン・マイヤー(1926-2009)がアマチュアカメラマンとして生涯撮影していたほか、パリのロベール・ドアノー(1912-1994)、ニューヨークのソール・ライター(1923-2013)などが街角のスナップショットを多く撮影していた。アジアでは、「東洋のカルティエ=ブレッソン」と呼ばれた中国のファン・ホー(1931-2016)や「和製カルティエ=ブレッソン」と呼ばれた日本の木村伊兵衛(1901-1974)などがいる。

f:id:udonjiro:20220908094416j:image図2

夜の交差点を捉えた一枚である。フラッシュが焚かれており、右端の白いポールや左端の電柱、樹、中央の横断歩道、車道のオレンジ線、信号機などが細部までくっきりと写っている。道に人影や車の姿はなく、澄み切っている印象だ。

時代順は前後するが、フランスのウジェーヌ・アジェ(1857-1927)が撮ったパリの街並みとすこし重なる。むろん昼と夜、そして撮影された地域の差はある。アジェは昼のパリ、この写真は夜のどこか、しかしおそらくヨーロッパではなさそうだということが見てとれる。アジェはフランス南西部ジロンド県、ドルドーニュ川近くのリブルヌという街で生まれた。幼くして両親を失くし、叔父に引き取られたという。神学校に進むが肌に合わず中退して商船に乗り込み、ウェイターになるがそれも辞め、俳優を夢見てパリの演劇学校に入る。24歳の頃に旅回りの役者になり、41歳で劇団をクビになって42歳でパリの街を撮り始める。

アジェは当初「芸術家のための資料」を掲げて街を撮影していたが、最近の研究ではそれは一時的なものだったらしい。その後1890年代ごろから体系立てたシリーズを撮影して、図書館や博物館にセット販売しようとした。生涯に撮影した写真は8000枚にのぼるという。世界的に知られるようになったのはマン・レイのアシスタントだったベレニス・アボットがアジェを評価し、亡くなって写真集を出版してからだった。

アジェの写真は記録性が高い。金村修・タカザワケンジ『挑発する写真史』(注5)のアジェ紹介パートで金村は「記録、分類、整理する対象として写真を撮るということは、表現として写真をとらえるというよりも、街や風景を「複写」するみたいな意識のほうが強い」と述べている。この記録性、非表現性はのちのシュルレアリストたちに見出された。それは「花の都パリが、まるで廃墟に見える」(タカザワ)ものだった。このことに関して、ヴァルター・ベンヤミンは『写真小史』(注6)のなかで次のように書いている。


アジェは行方知らずになったもの、漂流物のようなものを探したのだった。したがってこうした写真も、都市名のエキゾチックな響きに抵抗している。沈んでゆく船から水を掻い出すように、こうした写真は現実からアウラを掻い出す。


都市はこれらの写真の上では、まだ新しい借り手が見つからない住居のように、きれいにからっぽである。


そこでは、細部を鮮明に捉えるために、ほのぼのとした雰囲気はすべて犠牲にされる。

ベンヤミンはアジェの写真を「犯行現場」(注7)のようだと指摘している。警察による現場写真。不思議に細部が生々しく迫ってくるような写真である。同じくアジェの写真に魅せられた写真家/写真評論家中平卓馬は『決闘写真論』(注8)で「いわば真空の、凹型の眼に、向こう側からとび込んできた世界、都市をくしくも刻印した写真」と評している。「アッジェの映像はそのような私の思い出、情緒を最後の最後で突き放し、街は街として、事物は事物として冷ややかに私を凝視している」。

では「犯行現場」というなら、図2の写真を見てウィージー(1899-1968)を思い出してはどうか。ウクライナで生まれたユダヤアメリカ人の彼は、ニューヨークで起きた事件や事故の現場にいち早く駆けつけ、ストロボを焚いてセンセーショナルに撮影した。そこにはスキャンダリズムがある。思わず顔を手で隠した被写体もいた。鋭い批評精神に貫かれたその写真は、まさに「犯行現場」そのものを押さえたものだった。

図2の写真は、犯行が行われなかった「犯行現場」ようである。なにもないことを証明するために克明に撮影する。夜間、フラッシュを焚かれて細部まで写し出されたそれは、そこにあるはずのものがないウィージーのようでもあるし、昼と夜が逆転し都市名を剥奪されたアジェのようでもある。

f:id:udonjiro:20220908200917j:image図3

凝視とはなにか。たとえば中平は前掲書でそれを「一本の鋭い視線、あくまでもすべてを貫き通そうとする目の意志、すべてを内側に受け入れ、対象とそれを見る主体とその関係につねに疑問を提出し続けようとする目の意志」と記している。ではそこにどんなことが起こるか。「日頃慣れ親しんだ事物を、ある時ふとしたはずみで凝視する時、そこにそれまで見たこともない事物の新しい姿を発見する」。

新即物主義(ノイエ・ザッハリヒカイト)の写真は、そのような「凝視」の意志に貫かれたものである。1920-30年代ドイツのアルベルト・レンガー=パッチュ(1897-1966)らは「世界は美しい」と謳い上げた。写真技術の進化が高精細な描写の追求を可能にし、肉眼では認知できない新しい造形を発見しようという動向である。レンガー=パッチュの写真集『世界は美しい』(1928年)は、動植物やさまざまな工業製品、建築などをクローズアップで大胆に切り取り、対象の形態とテクスチャーを克明に捉えていた。鳥原前掲書では新即物主義の写真を「自然のなかに見出された幾何学的な造形美は機械のそれと重ねられ、世界はあらかじめ美的秩序とリズムを持っているということを示した」と説明している。

あらゆるものを等価なまなざしで捉えること。『写真の教科書』には「被写界深度を深くして手前から奥にあるものまで、そのすべてをハッキリと写す(これをパンフォーカスといいます)と、見る人は画面全体をくまなく見渡して、そこに写されたモノとモノとの関係性や、色とかたち、光と影などが織りなす画面構成に注目するでしょう」と記されてある。

あるいは図3は、硬質さという点で、花やヌードを大胆に撮ったニューヨークのロバート・メイプルソープ(1946-1989)に近いかもしれない。『フラワーズ』(1990年)には、端正で硬質な静物写真が収められている。ふたたび『写真の教科書』の「作品研究」を参照すれば、彼は「必要最小限のモノで画面を簡略に構成したうえで、あえてオーソドックスな印象の光を演出して撮影しています。しかし、そのことによって築き上げられた世界は、まるで大理石のような端正で硬質な印象を漂わせるものとなっています」と分析されている。

f:id:udonjiro:20220908221805j:image図4

全体のアレ具合、ビルや車の光、深い黒と白の対比、なにより都市を撮っているこの写真は、長いキャリアで作風はそのつどことなれど、同じく都市を撮った森山大道(1938-現在)にオマージュを捧げているようだ。

写真史家の金子隆一は『日本は写真集の国である』(注9)の中で森山の写真を「ストリート・スナップを方法として揺れ動く現実と渉りあい、強いコントラストで細部を省略する力強いイメージで、見る者の感情を挑発するものである」と表現した。日本の写真集をまとめて構成した写真評論家飯沢耕太郎・文『写真集の本』(注10)では、森山の写真集『光と影』(1982年)について「事物にストレートに対峙してシャッターを切ることで、被写体が強力な物質感をともなって浮かびあがってくる」と書かれてある。

森山は十代の頃からグラフィックデザイナーとして仕事をした後、関西の写真界でトップだった岩宮武二(1920-1989)の事務所に助手として入る。その後上京し写真家集団VIVOのメンバーだった細江英公(1933-現在)に助手として雇われる。独立後、カメラ雑誌で活躍し、中平卓馬も参加していた『プロブォーク』に二号から参加。「アレ・ブレ・ボケ」と評される。しかし『写真よさようなら』(1972年)を出したあとに、長いスランプに陥る。そこで80年代になってようやく出したのが前述の『光と影』だった。

森山は雑誌『写真』(注11)の北島敬三との対談の中で「記録だとか記念、記憶だとか、まあその中に嘘はないけど、でも、写真ってさ、そういうのを超えた強さがあるんだよね」と語っている。ある意味、アッジェに魅せられつつ、別のしかたで都市を記録し続けた写真家なのかもしれない。そこには〈欲望〉が噴出しているようにも見える。

余白に 

 

飯沢耕太郎は『写真的思考』(注12)で「写真という表現媒体に特徴的なのは、写真家と観客、すなわち表現の送り手と受け手との関係が他のジャンルと比較してそれほど固定していないことである」と述べている。撮ることと見ること、それから考えること。これらを実践するうえで、写真史という土台は重要になってくる。いま審美眼は歴史的にどの位置にあるのか?  むろんここに記してきたことには穴も多い。そして写真史はものすごい速さで更新されてゆく。しかし自分の撮った写真の立ち位置を見定めるとき、写真200年の歴史にすこしでも触れていることは、けっして意味のないことではないと思う。

 

*注

(注1)『身体と空間』所収、筑摩書房、1995年

(注2)筑摩書房、2021年

(注3)著・大和田良、勝倉崚太、岸剛史、木村崇志、船生望、圓井義典、インプレス、2016年

(注4)『身体と空間』同上

(注5)平凡社、2017年

(注6)筑摩書房、1998年、ベンヤミン初出は1931年

(注7)正確には、アジェの写真集の序文を書いたカミーユ・レヒトの言葉の引用

(注8)篠山紀信写真、朝日新聞社、1977年

(注9)梓出版社、2021年

(注10)KANZEN、2021年

(注11)ふげん社、2022年1月

(注12)河出書房新社、2009年

 

身辺スナップ(春夏秋冬/朝昼夜)

過去いくつか撮ってきた身辺スナップをお届けする。

写真家/写真批評家の中平卓馬は『なぜ、植物図鑑か』で「あらゆる陰影、またそこにしのび込む情緒を斥ぞけてなりたつのが図鑑である。"悲しそうな"猫の図鑑というものは存在しない」。「あらゆるものの羅列、並置がまた図鑑の性格である。図鑑はけっしてあるものを特権化し、それを中心に組み立てられる全体ではない」。「そしてまた図鑑は輝くばかりの事物の表層をなぞるだけである」と、「図鑑」の方法について述べた。では「図鑑」とはなにか?  それは写真のポエジーや〈闇〉や〈薄明〉を本質的に拒否するものだ。中平も言及しているが、それはもしかしたらファッション雑誌やカタログに似てさえいるだろう。「図鑑」とは、表現、とりわけ自己表現に対立する写真記録の理念を指す。コンセプトが先にあるのではない。事物を凝視する。もしそこにポエジーや〈気分〉が立ち上がってくるなら、それは〈私〉の「眼の怠惰」だ。「白昼、事物はあるがままの事物として存在する。赤裸々に、その線、形、質量、だがわれわれの視線はその外辺をなぞることしかできはしない」。眼は物語に濡れて制度化された意味をひきずったまま、驚きを奪ってしまう。あいまいさを排した写真。「裏側にある意味を探ろうとする下司な好奇心」を抱かぬよう、事物が明確に表れている写真。それが理念形としての「図鑑」である。

ここに記録されてあるモノを、撮影者は出会って撮った、それだけである。事物への視線を組織化すること、それが撮影者の目論みでありひとつだけ念頭にあったことだ。そしてまた近くシャッターを切るだろう。

 

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三浦半島小旅行

2022年8月のなかば、三浦半島(葉山、三浦、横須賀)をひとりで車でめぐった。以下は神奈川県立近代美術館 葉山で開催していたアレック・ソス展と、三浦半島の海や山の記録である。お盆休みのおわりだからなのか、人は意外と少なかった。夏の海辺のゆるい雰囲気のなかスナップショットを撮るのは、ほんとうに心地よい。帰り、闇夜の有料道路に浮かぶ赤く点滅する車のライトの美しさを、ひとりだったから活写できなかったのはすこし残念だった。

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晴れた日

わりあい長い付き合いになるのに夏に会ったことのなかった先輩に、過日、夏の晴天の日に続けて二度もお会いした。むろんこれは嬉しいことである。いままでその先輩の服装のイメージはといえばYシャツ、それもきまって白い長袖のものに、暗いトーンのパンツ、ときどき薄いロングの上質そうなコート、すこしフォーマルなスニーカー、といった具合だった。彼は基本冬の凍てつくような寒さの日でも、白シャツ一枚で出かけるような男だった。それが近年薄いとはいえ一枚うえに羽織るようになったのだから、年齢のせいかたんに気が変わっただけなのかわからないが、ひとは自分のスタイルを変えられるんだな、と感慨を持った。その日は白シャツではあったが半袖だった。

個人的な相談のためにお会いしたのだが、同時に、すこし用事もあって清澄白河のほうまで一緒に電車で向かった。近くにスカイツリーが見える街を歩く。それほど高くはない建物が並んでいるこのエリアに、コーヒー飲む?  飲みましょう、というわれわれの会話が響く。閑静な、といえば紋切り型のようだけどそう言うほかないこのあたりにあって、お互い郊外に住んでいるふたりは、それでも小さいお店が立ち並んでいるのはそれだけ人が住んでたりよそから来るからだろうね、でもお店の入れ替わりも激しそうですよねと続ける。

ブルーボトルコーヒーの日本一号店という店舗に入って、まだ午前中ですこしお腹も減っていたのでアイスコーヒーとチョコクッキーを頼んだ。筆者はコーヒーの味の違いには疎いが、いろんなところで言われている通り酸味が強かった。

昼になってピザ屋に入った。ピーチティーも付いてきた。お腹が満たされた。

そして続けて2回目のコーヒー屋に入る。カフェラテを頼んで飲んだが、この時点でカフェイン過剰摂取気味だったのでもうその日はコーヒー類を飲まないことにした。飲み過ぎちゃいましたね、とお酒でもあるまいに先輩がささやいた。筆者は酒類を飲まない。先輩は帰りにさらに別のコーヒー屋に入っていった。

翌日も朝方用事が済んで先輩と会った。彼の最寄駅で会うことになった。お昼を食べようとマルイのおひつごはん屋に入った。海鮮・おひつごはんを頼んだ。あ、おひつから直接食べちゃってた。べつにいいと思うよ、お茶漬けにしてこれから食べよう。この日は元首相が銃殺されるという事件が起こった。夜、大変な一日になってしまったけど今日はゆっくり休んでくださいとメッセージが来た。ありがたく思い、返信し、すこし動揺している気持ちを抑えながら布団に入った。

なんということはないある日のことを綴ったが、ちなみに、このポストのタイトル「晴れた日」は、篠山紀信の写真集『晴れた日』(1975)を思い出して付けた。雑多な種類の被写体をパキッとしたタッチで撮った、篠山の初期代表作だ。2021年には東京都写真美術館で「新・晴れた日」展が開催された。ふだん過ごしていて、本のタイトルから記憶が喚起されることはよくある。シンプルで力強い「晴れた日」というタイトルを、先輩と会ったこの2日に付けたい。