うどん二郎のブログ

95年生/横浜/写真

関係と色ーー『Dolls』(北野武、2002)雑感

f:id:udonjiro:20220411041851p:image

  テマティックな分析をするに際して、取り出した細部に過剰な意味を見出してしまうと、むしろその作品のもっとも生き生きとした部分を取り逃がしてしまう可能性がある。コジツケほど興ざめなものはないが、しかしことこの映画にあってはやはり「赤」の特権性をみないわけにはいかない。
  日本の文化的風土において、「赤」からまず想起されるイメージは多々あるが、慣用句にあっては「赤の他人」がメジャーなところだろう。明白な他人、自分とは関係のない人を指すこの言葉が一般的に用いられる一方、同時に赤のイメージは血も想起させる。転じて、「血」は家族的な関係性を示唆する語(血縁関係)でもある。そこで「赤」にまつわる(普通はほとんど問題にならない)この両義性を考えたい。つまり、最も緊密な血(赤)の関係になりうるのは、全然関わりのなかったはずの「赤の他人」同士でしかありえないということだ。太古より近親相姦が禁じられてきたことを踏まえれば、それは至極とうぜんのことなのだけれど。
  そうすると作中、「つながり乞食」と罵られる二人の姿が感動的なのは、まさしく血の関係にはなれなかった赤の他人同士が、「しかし、せめて」とでも言いたげな様子で、赤い綱で繋がれ、ひたすら懸命に闊歩しているからだろうか。それとも「一」組の夫婦(Couple)ではなく、あくまで結婚式に死を知らせにくる友人や、玩具の数と同じ、どこまでいっても「二」人(Pair)の、それぞれ個別的な存在でしかありえないその悲愴さからだろうか。
  目を惹く「赤」の登場により駆動された原理によって、黄(着物、車)、青(ジュース、ホテルの絨毯)とさまざまに招き寄せられる色に目をやるのは、さすがにやりすぎだろうか。はじめは黄色の「車」だから、黄と赤と青で信号機をイメージしているのかと思ったけれど、緑、ピンク、オレンジ、白、黒と次々に連関されていくさまをみて、あくまでそれらの戯れ自体が重要なのだと思った。決定的なのはアイドルの歌唱シーン。無数の色鮮やかなライトに照らされて、そのたびごとにいろんな色に染め上げられていたアイドルと、いまは失意のうちにある彼女の姿を見ないようにと盲目になったファンが、花畑で「色の世界」の彼岸にある「匂い」の話をするのもまた感動的だった。
  独りよがりの勝手な連想はとまらない。きわやかで美的な構図。説明も最小限で、ほんとうに上品だった。
  最後、他人の手を借りなければ動けない「人形」のようになってしまった女性の首からさげられたネックレスの、無色透明に光るクリスタルが、あまりにも人間の涙に似すぎていた。