うどん二郎のブログ

95年生/横浜/写真

ひとと桜、歩いて考える

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花の美しさは、それを誰かに見られなければ気づかれることはない。花は見られて初めて美しくなる。とりわけ桜は一年をつうじてその変化をよく観察されるから、そのもっとも豪華な姿を抜群のタイミングにおいて人前で披露することができる。しかしそれを見られるのはあと何回あろうか。と、老齢期が見えた中高年でもあるまいに、20代の、ポチポチとこの文を綴る者は、ふと考える。

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それというのも、祖父母が亡くなり、従兄弟に子どもが生まれて自分が確実に歳をとっているということを実感しているからである。ツイッターでフォローしている大学教員(おそらく50代)も、若者を教えるという立場だからか、自分の年齢を意識して「あと何年桜を見られるか」と呟いていた。人間は時間にしばられている。

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チェーホフの『桜の園』に、没落していく貴族階級の家族が出てくる。

 

ラネーフスカヤ  ああ、わたしのいとしい、なつかしい、美しい庭!  ……わたしの生活、わたしの青春、わたしの幸福、さようなら!

先祖代々の土地を手放さざるをえなくなった一家の話で、これは主人公のラネーフスカヤが我が家をあとにするときのセリフである。最後は大事に愛でてきた桜の木が伐られる場面で終わる。

この戯曲を、ちょうど家族で近くに花見へ行くときに読んでいた。たまたま積読のなかで季節感のある本はないかと探して見つけただけなのだけど、面白かった。よく努力によって人間は成長・進歩するという言説が見られるけれど、ほんとうはなにもしなくても落ちぶれることだってある。素朴で単純な人間観では、世界に不確定要素はなく、すべてをコントロール下におけると考えがちだが、予想外の出来事であっというまに事態は変わる。数年前病気になった自分は、人生どうしようもないのだ、とすこし思っている。外的要因の存在。ままならなさを生きる。

とはいうものの、おおむね日々は平凡であるとも思っている。普段から飲酒することがないので、自分の意識が揺るがされる経験がない。酒のドラッグとしてのポテンシャルも分からなければ、薬の大量摂取による高揚感も分からない。けれどこの淡々と続く平常な自意識を自ら途中で絶つことなく生きるのは、それはそれで難しいと感じる。

気のせいかもしれない。が、歩きながらぼんやりそんなことを考えていた。ふと見るとこないだまで満開だった桜が葉桜になっていた。思考には鮮度がある。思いついたことはなるだけ書き留めておこうとしているけれど、自然の速度のほうが速いときもある。

桜を見て、来年はどうなっているのかと毎年思っている気がする。べつにどうもなっていない。世相は変わるし体重も増えるし眠れない夜も多くなったけれど、それでもたいしたことはないと思ってしまう。なんだか世を捨ててるようだけど、捨ててはいない。あんまりいろんなことを気にしていないだけなんだろう。来年も、どうもなっていないことを願う。