うどん二郎のブログ

95年生/横浜/写真

撮るときについて

カメラのファインダーの中に入り込んで四角く切り取ってしまった時間の最先端を、僕は何の気なしに当たり前だとしてしまうのだが、実はそれはとても興味深いことなのだ。

ーー山口一郎「カメラ枠」『ことばーー僕自身の訓練のためのノート』

写真を撮るときほど自分の無意識を信じられるかどうかにかかっている瞬間もない。ひとがカメラを構えてわざわざ写真を撮るとき、きっと目の前にはふだん目にしない風景がひろがっている。「残したい」と思う瞬間というのは、つねにそのひとにとっての非日常であるはずだ。形と色の第一目撃者であること。この特殊な経験はしかし、見えるものの序列づけ=〈遠近法〉に従っているだろう。目は「これは大事、これは大事じゃない」とものをふるいにかける。選別はいま・ここで瞬時におこなわれるように思えるけれど、その裏にはたぶん無意識が絡んでいる。小さいころからの記憶、教育、人種、性別、文化、夢、トラウマ……しかしこれらは筆者の手に余るからここで深入りはできない。ひとつだけ言いたいのは、自分の無意識を信じられなければ、いま見えるものの中でなにが大事だと思っているかもわからなくなってしまうということだ。

さて、目が選んだものは四角く静止したイメージで切り取られる。「カメラはわれわれの見るという欲望の具現であり、その歴史的累積が生んだひとつの技術であり、それ自体ひとつの制度であると言えるだろう」(中平卓馬「なぜ、植物図鑑か」)。世界を客体と化す機械は歴史的に要請された技術の結晶で、実際のひとの視界と平面上に写された像はことなる。では撮ったものを見返して、「どうしてこんなものを撮ったのか」ということにもなる。要するに「ひとりの人間のなかに、見たものを「撮る人」と、撮れた結果を「見る人」という二つの人格が存在するのである」(大竹昭子『スナップショットは日記か?』)。「見たまま」に近い写真というのはある。しかし、そもそも機序がことなっているのだから肉眼とカメラはそれぞれちがう「制度」の中にあると言える。スナップショットでさえ、目が惹かれた景色と画面がちがうことがあるというのは、とくべつ不思議なことでもなかろう。シャッターを切るという一瞬ですむその行為は、じつは感じたものすべてをフィルムもしくは電子データに定着しえるものではないのだ。むしろ、取りこぼしてしまう要素のほうが多いと言ってもいいかもしれない。一枚の写真に含まれる情報は断片的なものにすぎない。

中平は前掲書で写真を撮ることについて「事物(もの)の視線を組織化すること」と述べている。〈私〉はものを見ているが、ものも〈私〉を見ている。世界はこれらの複雑な交差で成り立っていて、撮ることは複数の線の中の一本を選んでつまみ出す作業なのだ。ただし、残った何本かの線も元のままではいられない。部屋の配置を確認するために撮ったいくつかの写真を見ているうちいまいるこの部屋がなんだか見慣れない部屋に思えてくるように、こちらが凝視した結果、ものはあるがままの姿を見せはじめる。けっきょくわれわれの視線はその外辺をなぞることしかできないのだが、いちどものが明確なかたちを見せてくれれば、そのとき撮影者は視線の工作者になっていたということになるだろう。ここで個人的なことを記しておくと、筆者は過去の記憶が、実際にふたたびその場所に行ったときか、そこの映像を見たときに強く思い出される(音や匂いではすくない)。だからシャッターを切る瞬間は良い写真が撮れるかという普通の欲望と、「思い出せる」画面になるかという不安の二重の緊張を強いられる。カメラロールにある写真は変わらないけれど、記憶は年とともに改変されるし思い出せることもすくなくなっていくだろう。このことと、ものの視線を工作することとは、矛盾しない。健忘によって逆に写真から記憶が再構成されることもあるからだ。つまり、いま見ているものと見返されるものの関係は、時間が経過するにつれてあいまいになっていき、写真という「証拠」が、そこから遡及するように記憶を書き換える。「美しく見るには一度しか見るな」。なぜなら印象は、目を閉じてからはじめてまぶたの裏に浮かぶものだからだ。美的な写真というものはある。しかし撮ってしまったら「正しく」見えてしまい、見てしまったら記憶は書き換えられる。

いっぽうで写真にはレタッチとトリミングという〈手の痕跡〉も残されている。かつてはどの写真も暗室作業という手仕事が前提とされていたが、いまも、より美的にもしくはより創造的に画を見せるために色調調整や切り取りがおこなわれている。フラッシュを焚くことも〈手〉の作業のうちに入るだろう。だから、世界に対して〈目〉と〈手〉の二段階の介入をもってはじめて、写真は成り立つと言える。

どこか不安なところもある。しかし筆者は写真を〈表現〉に限定しようとする、ある種の伝統的な考え方に反対の立場をとる。いま、絵を描くようにものは撮られ、人間の思惑を投影される、つまり擬人化されている。ほんらい、それは言葉の領域である。そしてあらかじめ捕獲された言葉を了解的に展開するのが〈表現〉の正体なのだ。ならば、そこで〈記録〉が対置されるだろう。既成の意味とイメージがベッタリとくっついている状態ではなく、たえず静かに挑発されるような写真。言葉を挑発してくる記録としての写真は、むしろ現実のきわめて忠実な似姿であるがゆえにきっと記憶を揺さぶってくるはずだ。

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