うどん二郎のブログ

95年生/横浜/写真

語りの不思議ーー滝口悠生『死んでいない者』

話される言葉は、あともどりがきかない。ーーロラン・バルト『言語のざわめき』

その日、「寺でも専用の斎場でもなく地区の集会所」で85歳にして亡くなった人物の通夜がとり行われていた。「埼玉の西側、東京に近くない方」とだけ記された土地には河原や林などの風景が広がり、ラブホテルやゴルフ練習場、ビジネス旅館、温泉ランドも建ち並ぶ。いまや周囲から「故人」と呼ばれるその人の葬礼には総勢30人ほどの親戚たちが訪れ、60歳になる長男の春寿(はるひさ)が喪主を務めた……けれど、参列する彼と兄弟姉妹4人とその配偶者、孫10人ほど、さらにひ孫3人はもはや傍目には「誰が誰の子供で、誰と誰が兄弟なのか」見分けがつかないというありさまだった。もちろん人物たちの名前は記される。だが、たとえば冒頭5行ほどの語り手の通夜にたいする所懐(「人は誰でも死ぬのだから自分もいつかは死ぬ(…)」「次の葬式はあの人か」「お互いにお互いの死をゆるやかに思い合っている連帯感」)の直後にはさまれる「よしなさいよ、縁起でもない」という応答は誰が発したものか。あるいはそれは話されたのか、思われたのか……「などと思ったところで」、小説では「誰かがその言葉尻を捕まえて」反論しだし、「話を複雑にする」。べつの場面を見てもそうだ。

英太はサッカー部だった。英太はくるぶし丈の靴下の踵だけを脱いで、靴下が指先に引っかかったようになっている。脱ぐんなら脱げよ。(34p)

「故人」の子・多恵の17歳の娘・知花と保雄の息子・英太はいとこどうしで同い年だ。三人称多元視界のもとで進んでいく本作にあって、引用部三文目のような自由間接話法の一種と呼びうる発語は全体の流れに綾をつける。まるで全員がそれぞれ離れた場所でマイクを持ち、電源が唐突にオンになって声が拾われるかのような即興感。しかしマイクリレーは、いま・ここで行われるだけではない。

尻の下の柔らかい砂の感触を、今パイプ椅子に接した尻が思い出す。

ーー思い出す。

はっちゃんは思わず聞こえた自分の声に自分で驚いた。(126p)

ホールの椅子に腰かけたままでいた故人の幼馴染み・はっちゃんは、ふたりで旅した「気比の松原」の思い出を長く深く振り返っていた。そしてうたた寝から醒めるみたいにして漏れ出た「声」に、「砂浜じゃなくて、小石の浜じゃなかったか?」とどこからともなく返事が重なる。

ところで、冒頭引用したバルトは「いったん口にしたことは、取り戻すことができず、ただ増えるばかりである。(…)私にできるのは、ただ《抹消する、削除する、訂正する》と口に出して言うことだけである。つまり、もう一度話すことだけである」(同書76p)と説明している。書き言葉と話し言葉の性質のちがいは、前者は「まちがった」ときその部分だけ消せばよいが、後者は一度発してしまったものはそのままで、たとえば撤回するなら「撤回する」と追加して口に出さなければならないところにある。要するに話し言葉は訂正すればするほど「長く」なるのだ。だからそもそもふたり旅の理由も経緯も思い出せないはっちゃんは、「思い出せない」とわざわざ語るのだし、そこに、故人までもがはっちゃんの回想に「訂正」を提案してくる。ここがこの小説のもっとも特徴的な点なのだが、死者による語りでさえ、地の文でつづられるひと続きの文章は順々に読まれてするすると追える。それが「砂浜」だろうが「小石の浜」だろうが決まらなくても、この小説において語りは累加的なのである。ただ、注意しておきたいのはあくまでこれらは書かれたものであって、話し言葉を「擬装」しているということだ。もっといえば現実の会話ともちがうし、訂正するところのない文書でもない、脱線や記憶ちがいをも含んだテキストである。カギ括弧による会話が使われない本作では人物Aにかかわるくだりのすぐあとで、Aではなく、実際にAが口に出したものであるかのように読み取ってB、そこからC、Dが反応する。この柔軟でなめらかな焦点移動にはライブ感があるけれど、いわばこれは話者と読者の共同作業でもある。書かれたものはすでに読まれているからだ。

ラブホテルの上の階やゴルフの練習場、温泉ランドの浴場(男女の仕切りの上は空いているだろう)など、空間は広くひとつづきになっているように描かれる。そのような空間の中で、通夜がとり行われているのは「集会所」だった。フィクション作品では、登場した細部は意味を持ちうるし、出会った人たちは関係しあう。逆に通りすがりの人が一瞬描かれる場合(「あらやだ、あはははは」と笑うおばさん)も魅力的ではあるのだが、とりわけくりかえし出てくるのは「集会所」だった。この細部はなにげなく設定されているけれど、葬礼が、そしてなにより小説が、人を「集」まらせ一堂に「会」わせる場「所」であるという格好の条件になっていはしないか。だとすれば、「吉美伯母さんの夫である勝行伯父さんと、知花の父親である憲司は、まったく血がつながっていないのに(…)兄弟としか思えないほど顔も雰囲気も似てい」るという状況だって、近くに集まっているのだから似ているように見える、あるいは逆に、似ているのは近くにいるからだと説明しきってしまってもいいかもしれない。それほどこの人物たちと舞台は、小説という場所によく馴染んでいる。

ひとつだけ文学史的な連想をしてみるならば、憲司の息子で知花の10歳上の兄・美之(よしゆき)は故人の晩年8年間寄り添って中学時代からいわば「活動的に」「引きこもっている」のだが、この「独創人」(ドゥルーズ)ぶりはバートルビー(メルヴィル『書記バートルビー』)を思わせる。通夜には来ていない。理由も不明のまま不登校になった美之はしかし放課後になって訪ねてくる友人たちを自室に招き「楽しそうに遊んでいる」。しだいにその友人たちもが学校に通わなくなり昼からみんなで美之の部屋に集まるようになった。翌年に高校受験を控えた彼らは学校には通わないまま「自主的に勉強会を開くなどしているようだった」。一人ひとりが孤独で力強く、「説明可能ないかなる形態」からもこぼれ落ちてしまう(ドゥルーズバートルビー、または決まり文句」『批評と臨床』)。どうしても、美之の挙動に目がいってしまう。学校に行くこと以外は拒まない彼は、中心が複数あるような多視点的なこの小説のなかの衛星なのである。

いま、集会所で「昔話とともに吐き出された煙」が消えてはまた満たされていくように、彼らの名前をそのうち忘れては思い出すだろうと読み終える。

 

滝口悠生『死んでいない者』(初出「文學界」2015年12月号、単行本2016年文藝春秋刊、引用は文庫2019年文藝春秋刊から)

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旅行の話

 

東京オリンピック開催前に日本から海外へ旅行をすることは、かんたんで楽しくてわりあい金銭的にも値段に見合った体験ができるものだったと、まだiPhone5sだか6だかで撮った粗い画質の写真を見返しながら思う。

2014年に大学の第二外国語履修で第一希望のスペイン語が選外になり(話者も多く、「実用的」と言われさしたる覚悟もなく書類を提出した)、なぜその次に選んだのかももはやさだかではないが、いまとなっては選んでよかったと思える第二希望の韓国語を、週4コマのペースで受講していた。一年間はそれが必修だったから発音や文法、単語も「赤子並み」(菊地成孔)にはなっていたはずで、秋学期の期末テストを終え春休みには路線図や地理が好きな同学年の友人と「現地実習」と称して韓国・ソウルへと飛んだのである。このとき、この友人とはすでにその前の年に京都に旅行してもいた。海外へ行くのは2012年の高校生のときアメリカ・メリーランドへホームステイ研修へ行った以来2回目だったのだけれど、彼は家族旅行などで小さいころからしばしば海外へ行っていたらしい。ともあれ、おたがいパスポートは無事使えた。この韓国旅行が、自分たちで予定を組んで出かける初めての旅行だった。いまとなっては大半がおぼろげな記憶で、でもたしかに行ったというiPhoneの中の「証拠写真」を眺めながら記せば、明洞(ミョンドン)(日本でいう渋谷、原宿的なエリア)には韓国に着いて最初に行ったらしい。屋台や日本でも見たことのあるグローバル企業の看板が並び、夜でも賑わっていて、おまけに丸亀製麺すらあった。さすがにそれは食べなかったが、さながらセンター街を歩いているかのようだった。

ここ数年聴いている野村訓市のラジオ「TRAVELLING WITHOUT MOVING」(J-WAVE、毎週日曜20時〜)では「旅」をテーマにリスナーや野村訓市自身の体験が語られる。「動かない旅」、あるいはそれは回想かもしれない。こうやって旅のことを考えることも、日々の忙しさや悩みから解き放ってくれる。ラジオでは、旅先で出会ったひとと数年ぶりに会ったという話や、旅中高熱を出しながらも移動しなければならずつらかったという話などがよく語られるのだけれど、ぼくは基本旅の途中では誰かと仲良くならないし、食べ物や環境も注意するから体調も崩さない、言ってみれば非冒険的旅行者だ。とくに旅先でもマクドナルドによく行くという時点で保守的であるといえるかもしれない。宿だって、初めて海外へひとり旅をした2018年のニューヨーク卒業旅行も、安く抑えられるユースホステルには泊まらず、できるだけ安価な普通のホテルに泊まった。だれかと旅行に行くときも、移動手段が取りやすく、普通の安めの宿を取ることが多い。だからあまり宿でひどい目に遭ったことはないのだが、一度だけ、これも卒業旅行としてテニスサークル(そう、ぼくは高校から始めて12年もテニスをやっているのです)の同期3人と西日本をレンタカーで横断したとき、ほかに予約が取れず名古屋で一泊3000円くらいの個人旅館に泊まって、居心地が悪くぜんぜん眠れなかった記憶がある。あのとき床にこびりついていたほこりのことは、嫌な気持ちになりながらも思い出せる。

気候は涼しい時期に、温帯に分類される地域に行くことが多いけれど、2015年の9月に行ったベトナムハノイは蒸し暑かった。土砂降りのスコールが降って足元がずぶ濡れになりながら市街地を歩いているとき、一緒に行った中学時代の剣道をやっていた友人がしびれを切らし「タクシー使わない?」と提案してきた。貧乏旅行だったけれどたしかに名案だった。というか、なんでもっと早く思いつかなかったのだろう、というような切迫した状況でもあった。結局タクシーを捕まえて、英語が伝わらないので地図や住所を伝えて宿まで送ってもらい、そこまでの大金は払わずにすんだ。このベトナム旅行で思い出すのは市内のはずれを歩いているとき、英語で「靴見せて」といきなり自分の靴をふんだくられて修理しはじめ、いくらだったか、頼んでないのに料金を請求されそうになったことだ。ぼくが履いていたのはスニーカーで、たしかに底がボロボロになっていたのだけど修理といっても薄いゴム板を貼っ付けただけで、まあぼったくりに近い。これが街で出会う初めてのトラブルだったから、おおごとにならないように「これだけしか持ってない」と少しのお金を渡してその場を去った。あれはなんだったのだろう。言葉もまともに通じなければ、相手がやりたいこともわからないという状況は、外国に行かないとなかなかない。それでも、ベトナムはカフェ文化が発達していて内装のきれいなカフェに入って落ち着くこともできた。アイスカフェラテも、甘くてクリーミーで美味しかった記憶がある。その近くに水上人形劇の劇場があって、これは動画で見たほうが迫力が伝わると思うのだが、人形の動きのダイナミックさと噴出される水、カラフルなライティングと相まってかなり奇妙な人形劇だった。そして、じつは韓国に一緒に行った友人がそのすこし前にわれわれと同じ目的地に家族旅行に行ったらしいのだ。それはハロン湾という世界遺産で、海上に岩がせり出している風景が一望できるクルーズツアーだった。ところが航行中、船の横に幅寄せてきたのは「海賊」だった。じっさいは高額で食材を売る商人的な存在らしかったのだが、いきなり現れるとびっくりさせられるものだ。こんな危なっかしい目に遭わせられるとは思わなかった。

それにしてもやはり各国の都市の造りは面白い。先にすこし触れた2018年のニューヨーク単独卒業旅行では、MoMAメトロポリタン美術館、ホイットニー美術館、ニューヨーク公立図書館、ソロモン・グッゲンハイム美術館その他多数の美術館を回ったが、ほぼ、マンハッタンのはずれの宿から地下鉄で数十分で着いた。これだけ見どころが密集している、計画的に作られた街もなかなかないのではなかろうか。2023年現在は円安の影響でランチが1万円を超えるとも伝え聞くが、ぼくがある日入ったIppudo(とんこつラーメンチェーンの一風堂)は$19.60(当時で2000円弱)+20%のチップだった。それから千葉雅也もボストンでの研究滞在生活を綴った『アメリカ紀行』で触れているが、ダンキンドーナツである。ファーストフードの店舗で、値段が控えめでどこにでもあって、マクドナルドより綺麗で入りやすかった。ぼくは1週間弱しかニューヨークに滞在しなかったけれどずっと同じ宿にいて、そうすると最初のうちにカフェなり安めの店なり、どこかを「領土化」する必要がある。そこを拠点のひとつにするのだ。ダンキンドーナツはコーヒーも美味しいし活気もあって、一日のことをそこから考えるにはうってつけだった。肝心なのはもうひとつ、その辺を歩いていてもマクドナルドよりたくさん見つかることである。居場所にしやすい店だった。本屋にも行って流行をチェックしようとしたが、英語力に限界があって詳しい内容までは追えなかった。フィッツジェラルドとかヘミングウェイの古典もあったしビジネス書などがよく読まれてる印象だった。ストランド・ブックストアという古本屋に行くと、フーコーの講義録がずらっと棚に並んでいて人気だったのと、東浩紀『一般意志2.0』の英語版が売ってあった。後者は日本語版で読んでいたこともあって、英語の勉強のためにも一応買ってみた。f:id:udonjiro:20230602132502j:image摩天楼

じつは上のNY旅行には続きがある。先ほどの韓国旅行に行った友人とパリで落ち合おうということになっていたのだ。彼は事前にロンドンから特急電車で、ぼくは飛行機で向かおうとしたのだが、JFKから飛ぶはずだった便がトラブルでキャンセルされたと前日にメールが入った。結局別の便でオルレアン空港までは行くことができたのだが、待ち合わせに苦労した。それから先回りして帰りのことを書くと、2回トランジットでモスクワ、ソウルと経由したのだがモスクワで荷物がロストしてしまった。これは本当に困って、ソウルで発覚したのだけどお土産や衣類はぜんぶキャリーバッグに入っていたから日本に帰ってからの生活を韓国で心配する羽目になってしまった。ともあれ、パリである。学部はフランス現代思想が専門の先生やじっさいにフランス語で原書を読んでいる友人が多い環境だったし、ブレッソンジャック・タチなどこだわりが強そうなフランス映画監督の映画も好きだったから楽しみだったけど、なにせフランス語がわからない。そんなところに、突然、友人と泊まったパリ北駅横の古めかしい宿の窓を開けると、白煙が立ち上っていた。f:id:udonjiro:20230602132014j:image18年3月22日、パリ北駅のデモ

なにがあったのかその場にいた人に聞いても”Manifestation!”と繰り返されるだけでよくわからない。後でわかったのは、これはマクロン政権の公務員に対する政策に反発してのデモだったということだ。のちにあの「黄色いベスト運動」につながるアクションをその場に居合わせて目撃できた。だからその日は地下鉄も一部動いてなかったし、美術館もストのために休館だった。別の日にルーブルピカソ美術館もポンピドゥーセンターも行けたのでそれはよかったが、オルセー美術館は行けずじまいだった。帰り際、原書でルジャンドルを読んでいる友人にデリダエクリチュールと差異』(かろうじて「エクリチュール」と「差異」が読めた)をお土産に買っていった。

先日会った友人が世界一周旅行を計画しているらしく、そのために代官山の蔦屋書店に一日篭って雑誌や旅行本を漁っていたという。ぼくも旅の計画を立てるときは『地球の歩き方』にお世話になる。韓国とニューヨークに行ったときは雑誌『TRANSIT』や『BRUTAS』をそれぞれ持っていった。コロナ禍を経て、旅への感覚はいままでのようには気楽なものではなくなったかもしれない。すくなくとも海外へはこの3年間行っていないし、国内旅行すらほぼしていない。ただ、雑誌で取り上げられている近場のエリア(葉山、東京湾沿いなど)に車を出して行くこともある。「旅」で一冊分厚い雑誌になるのだから、人びとがもともと持っている旅行への思いは熱いものがあるのだろう。ちなみに改元の瞬間は、最初に韓国に行ったのとは別の友人とこれまた韓国の地にいた。K-POPが盛り上がっている時期でもあった。こんなふうに旅行という区切りを持つことで時代の捉え方、振り返り方も変わる。さすがに「非国民」とは言われなかったが、あの「平成最後の!」を連呼するムードに物理的に距離をとれたのは幸いであった。

ひとりで行った旅行もあるけれど、友人と行った旅行はどれも友人にたくさん助けられた。楽しかったし、いま振り返っても感謝の念が込み上げてくる。また行こう。

総天然色の鈍くて粗い春

 

ひとまずうっとうしいあの黒くて重い箱を持ち歩くのに疲れたときに代わって持ち出されるのはだいたい使い捨てカメラだろうけれど、だからその時点でものごとを「精細に」撮るということはなかば諦めなければならなくて、ここに連なるのはもっぱら感覚的に鈍くて粗いニュアンスの写真ばかりということになる。でも横浜、町田、高円寺なんかの、言っちゃ悪いが撮るほどでもないものを瞬間的に撮るには、1986年に初代が発売されてからそこそこの歴史を持つ富士フィルム製の小型カメラは役に立った。謳い文句の「レトロ」も「アナログ」もそれが主流だった頃の記憶などないから、いまや無い過去を妄想するほかないけれど、しかしどの写真もつねに、プリントされて手元に来た瞬間が最も新しい。

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日付と場所からの発想ーー報道写真小論

 

さる2022年7月9日朝の日本の活字空間には、「安倍元首相撃たれ死亡」という大きなカット見出しがどこもかしこも一言一句たがわずに支配していた。これはけっして誇張ではなく、いわゆる五大紙と呼ばれる大手全国紙がその日、かかる10文字を正確無比に揃えてみせたのだ。事件とは、興味の対象がふつう起こりえない変化を生じさせたとき、あるいは興味を寄せる人間の数の多さでその重要性が決まる。ここではもはや翌日の朝には誰もが驚愕し尽くしていたであろう「犯行」が取り上げられているが、むしろ驚くべきは「新しい報せ」が、そのときにはすでに全員の共通理解にすらなっていたことであるかもしれない。

ここでメディア論的な主題を展開したいわけではかならずしもない。ただあらかじめ多くのひとにとって既知の事件が、どのような写真とともに活字で世に放たれるのか、イデオロギーも規模もことなる媒体が、同一の主題をめぐって、どのように紙面を凝らすのか気になっただけである。だからとりあえずテキストとセットで紙面に提出される写真を「報道写真」として論じていくことにするが、あくまでこれは小論として書かれるもので、網羅的に分野の全体を見渡したものではないことをことわっておく。

一般的に新聞記事の本文は「逆三角形」型で書かれる。つまり重要な情報から順番に書き始められ、枝葉の内容が最後にくるというものである。骨子は見出しに集約される。報道写真はおおむね「主語」「述語」「時間」「場所」などのどれかがわかりやすく写される。報道内容を視覚的に伝えるためである。出来事の全体を明らかにするものであるが、ときに選挙当選時のバンザイのようにカメラ記者が候補者と交渉して手を上にあげた状態で静止してもらう作為的なものもあり、こうした作為性はニュースを象徴的に伝えるものとして利用される。ただし、ときにこのような「ヤラセ」やトリミングなどの編集は政治的な意図を帯びることを念頭に置いておいてもよいだろう。

ところで写真批評家でもあった中平卓馬は『なぜ、植物図鑑か』の第二章「日付、場所、行為」でジャーナリズムの語源に触れてつぎのように記す。

ジャーナリズムがたとえば、仏語のjour(日、日付)などと語源を一つにし、そこから派生してきた言葉であることを考えあわせる時、それは別の視角からの検討を要求してくる(...)。

それは「日付主義」ということになるのではないか。

「日付主義」というのが何やら判然としないならば、すべての人間の活動を「いつ」「どこで」という日付の限定を前提とした、一つの思考方法、さらに言えばそのような日付に根ざした思想を本来、ジャーナリズムという言葉は内包していたのではないかということなのである。

この文章自体は後半で日本の全共闘運動に言及しており、日付や場所などによって限定された存在が、しかしより普遍的な存在へと至ろうとすることを「プロセス」としてとらえ大きなうねりとなっていくのではないかと説かれている。結局運動自体が頓挫してしまっても本質はそのようなものではないか、と。引用では「日付主義」という独特な語が用いられているけれど、引用者はほかでこれが使われているところをみたことがないから著者の発明ではないかと推測している。ジャーナリズムの魅力的な言いかえと響くこの語だがその意味するところは深い。膨大で捉えきれない世界を区切って、時間も場所も特定してはじめてすこしずつ思考が開始される。ほんらい動的な世界を一望できるすべはなく言葉でもイメージでも断片が蓄積されていってその時そのときの全体像がぼんやり浮かび上がってくるにすぎないのではなかろうか。とくに写真の四角いフレームはきわめて限定されたものだしそこで切り取られるのはものごとのかけらでしかありえない。さらに日付と場所まで特定してやっとニュースは具体性を帯びてくる。

いっぽうで写真の美学が専門の村上由鶴は『POPEYE』ウェブ記事「ハッキングされているのは写真でありわたしであるー純粋に写真を見れると思うなよ」(連載『おとといまでのわたしのための写真論』)で写真とそのコンテクストについてこのように述べる(注1)。

どんなに静的に見える写真であっても、ハッシュタグや新聞などといった写真のコンテクストにハッキングされる意識(への意識)と、写真をハッキングするメディアや場所が負うコンテクストの濁流の中でダイナミックに動いている。独立自尊で写真を見れると思ったら、大間違いなのです。

SNS時代の写真、とりわけニュース写真がシェアされるときにはコンテクストが伴う。日付主義的な唯一無二の写真に色をつけ新聞雑誌が置かれている社会的な立ち位置、もっと大きいのは個人のアカウントがどんな反応の言葉を添えるかである。この場合イデオロギーをもとにした連帯の道具として象徴的な写真を選んで、言葉とイメージの関係をより強固に結びつけようとさえするだろう。このコンテクストに関して、ロラン・バルトは「写真のメッセージ」(『映像の修辞学』)でわれわれが受け取る情報について「報道写真はメッセージである」と書き始め、続く文章で事態をきわめて簡潔に指摘している。

(…)写真の構造は孤立した構造ではない。少なくとももう一つ別の構造、すなわちどの報道写真にも必ず備わっているテクスト(見出し、キャプションあるいは記事)とつながっているのである。

情報全体は異なる二つの構造に支えられていることになる。(…)一方(テクスト)においてはメッセージの素材は言葉であり、他方(写真)においては線、面、色調である。

では7月9日朝刊の一面に掲載された本文とわれわれに差し出された写真の関係はどのようなものだったか。試みにまず朝日新聞を一瞥すると死亡直前に演説をしている安倍晋三の縦位置の写真が一番上に配置され、その下に三分の二ほどの大きさで山上徹也確保の「動的な」、あるいはこう言ってよければその「決定的瞬間」が捉えられている。読売新聞はカット見出しの下の真ん中に搬送される元首相が横たわりその横に救急車の白い車体、大勢の関係者が本人を囲んでいる写真が大きく配置され、下に容疑者が押さえられている写真と演説中の元首相の小さな顔写真が掲載されている。毎日新聞はおそらく銃撃直後、道に横たわって支援者や医療関係者であろうひとたちに囲まれる写真が、端のガードレール込みで写っている。産経新聞は一番大きい写真がガードレール横で応急処置を受けぐったりしている元首相と支援者たち、その横に小さく二つ演説中の写真と容疑者確保の写真。日経新聞と、これは地方紙だが東京新聞は演説中の写真のみだった。もうひとつ地方紙を挙げておけば神奈川新聞も演説中の写真だったのだが、背後に山上容疑者が写り込んでいる、不気味な写真をトップに大きく持ってきた。

すべての主見出しに共通していたのは「演説中」の語彙で、重要度からいえばカット見出しの「死亡」のつぎに「演説中」がきていることになる。しかし当然のことながら銃撃された瞬間を捉えた写真はない。朝日日経東京は生前最後の演説中の写真であり毎日読売は倒れている写真、産経は両方載っていた。カメラは、真の意味で決定的瞬間を見過ごしたわけである。毎日読売産経の倒れている写真にもまた血は写っていないわけであり、配慮がかいま見える。紙面から伝えられるメッセージとは「安倍晋三は直前まで生きていた」ということであり、「そして死んだ」ということにすぎない。

むろんこれはバルトの言葉も踏まえている。

たしかに映像は現実のものではない。しかし少なくともその完璧なアナロゴン[アナロジー、相似物]であって、常識的に写真を定義するのはまさしくこの類似の完全性なのである。(前掲書)

「類似の完全性」、完璧に現実にちかいこと。オブジェと映像のあいだに中継物が入る必要性がない、つまり「写真はコードのないメッセージである」。だからいっそう起こったことの生々しさが際立ってくる。「これ」、が起こった。それは取り返しがつかない。ふつう道路に横たわって救命処置を施される瀕死の政治家の写真など見かけない。その途方もなさに、動かない写真はわずかなことしか応えてくれない。残された手がかりはやはり日付と場所ということになるだろう。7月8日昼の大和西大寺駅前。

ちなみに、先の毎日新聞の写真を撮った同社奈良支局の久保聡氏は「2022年報道写真展」で新聞協会賞を受賞している(注2)。体は横たわっていて、胸元から流れているであろう血は、しかしジャケットに隠れ、見えている部分も加工を施されている。「騒然とする現場で、瞬時の判断によりスマートフォンを使って至近距離で撮影した写真は、凶弾に倒れ、横たわる安倍元首相の表情を克明に捉え、事件の衝撃を伝える象徴的な一枚となった」(展示より)。たしかに死にゆく大物政治家の弱りきった表情を伝えてはいる。いっぽうで朝日新聞の容疑者確保の瞬間を捉えた同社上田真美氏の写真も展示されていて、正確にいえば紙面の一面に載った写真ではないのだが、こちらはむしろ見る者をかき乱すかのような激しい写真に見える。なぜならそれはSPの男が全速力で容疑者を捕まえようとしているのがわかるからであり、彼らのジャケットは大きくなびいている。だが、向かい合う二人の視線を同時にひとつの画面に収めることが不可能なように、けっきょくこのときの読者は、背後に容疑者が眺めている神奈川新聞のような例をわずかにのぞいて、別々の一枚で事態を把握するしかない立場に置かれている。

だからいまいちど注意をしておかなければならないのは、独立した一枚などどこにもなく、またその一枚とは、もともとは「沈黙」したものであるということだ。それは眼の論理だからである。にもかかわらずひとは目撃してしまったとき、饒舌にならざるをえない。並べられた写真たちを紐づけ、普遍的で抽象的な問題を語ってしまう。ただ、事件が過去のものになったとき、くどいようだがまず立ち返るべきは日付と場所であろうということを、銘記しておく。

(注1)連載『おとといまでのわたしのための写真論』/ハッキングされているのは写真でありわたしであるー純粋に写真を見れると思うなよ/文・村上由鶴 | POPEYE Web | ポパイウェブ

(注2)日本新聞博物館「2022年報道写真展」(2023年1月7日〜4月16日)

山崎団地で会いましょう

 

地図を見てみよう。形でいえばちょうど町田市の重心が真ん中にくるような位置に、3920戸を有する山崎団地はあった。足を踏み入れれば気圧される敷地の広さに多摩郊外の団地のなにか核心があるように思われる。たとえば「2-7」などと割り振られた住棟の番号は、つまり街区-号棟に対応しており、ある土地に人間が集まって住むうえでの計画性というものが伺われる。町田駅からも古淵駅からも徒歩で行くにはほど遠いこの場所は、しかしいちど着いてしまえばスーパーも銀行も図書館も飲食店もぐるっと巡ることができる。こともあろうに自動車で来ることを忘れてしまったひとは、乗り入れ数都内最多の路線バスを使えばまったく頭を煩わせることなくその地にたどり着けるだろう。

べつに特別なものがあるわけではない。でも試みに、建設主のUR都市機構のホームページ(注1)から惹句を見つける。

春には商店街の木にコゲラが巣をつくり子育てをしている姿が見られます

団地内にはそれぞれ三つの保育園と幼稚園があり、学校も隣接しています。医療機関も敷地内に「ふくいんクリニック」などがあり、毎日の健康もサポートできます

読まれるとおり巣の「コゲラ」が草花に囲まれて子育てをするひとつの空間で、じっさいにひとの子が生まれ育ち、あるいはほかの団地と同じく多くの高齢者が暮らす。喚起されるのは共同性と時間性である。

1968年。闘争の季節、高度経済成長のさなか公団の大量供給期にあったマンモス団地のひとつとして町田山崎団地は建てられた。翌69年からこの団地に住み始めた北海道出身の作家・八木義徳は終生ここで暮らし、88年発表のエッセイで当時をこのように振り返っている。

3Kという狭い公団規格のわが家では、余分な本を置いておくだけのスペースはほとんどない。

その四階のヴェランダからは、棟をつらねた団地の家並みを通してはるか西南方に丹沢山塊が望まれる。

ヴェランダの下から、ふいに歓声があがった。学校が退けて子供たちが帰ってきたのだ。かれらはいったんそれぞれの家に引き上げて、母親の用意したおやつを食べ終えると、すぐまた手に手に遊び道具をもって外へ出てくる。そして三人四人と別々の組になって、メンコあそびやコマ廻しやボール投げをはじめる。

(「春の泥」八木義徳全集5巻)

ある意味ではこれは貴重な証言である。20世紀の山崎町2200番地山崎団地2号棟2番403号から見える風景というのは、このようなものであった。しかしその成り立ち、つまり1970年前後というのは、町田市元市長・大下勝正『町田市が変わった』をひもとけば、意外にも複雑だったことがわかる。

公団は住宅戸数の増加を急ぐあまり、住環境や都市機能の整備はほとんどといってよいほど無視していた。そこで、たちまち道路、交通はまひして通勤地獄をひきおこした。

団地住民の不満は鬱積していた。

同書では団地急増の裏側で都市の機能低下が起きていたと説かれる。そのような背景をもってまとめられたのが1970年の町田市団地白書『団地建設と市民生活  町田市の新しい出発のために』である。

続々と進められる住宅団地の建設ーーいまや、町田市は全国一の団地都市となった。

しかし、それは都市の無秩序な急膨張にほかならなかった。そのなかで町田市は住宅都市としての機能を著しく低め、市民の日常生活はさまざまな不便に悩まされている。

本白書では、そうした数々の問題のなかから、当面緊急に解決されなければならない課題についての提言を行なった。

「当面」の緊急的な課題は人口バランスや働き方の変化などでいまやすこし変わったように思える。さきに述べた共同性と時間性とは、55年の歴史をさりげなく見てみて、そのコミュニティのありかたや団地自体に時間が流れたということだ。

そのまわりを囲む町田という空間はではどんなものだろうか。東浩紀北田暁大『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』の対談の中でこのように北田は述べる。

北田:八〇年代に座間という新興開発の県央地域から藤沢へと移り住みはしましたが、基本的に国道16号線的な風景は所与の前提だったわけです。町田が近隣の都市のなかではもっとも大きい都市であって、町田とその衛星都市を結ぶラインは多かれ少なかれ国道16号線的な風景になっていた。シミュラークル的な広告郊外というよりは、まさしくジャスコ的な郊外。

基本的に電車を移動手段の前提としているのだろうが、東急沿線的な「広告郊外」の趣きは町田の中でも南のエリア、つまり南町田(いまは駅名は「南町田グランベリーパーク」)が主で、駅周辺部の繁華街、そしてじゃっかん距離はあるが山崎団地は「国道16号線的」=「ジャスコ的」な郊外という雰囲気を帯びていそうだ。

『布団の中から蜂起せよ』を22年に上梓した町田市出身のライターでアナーカ・フェミニストの高島鈴はウェブ連載「巨大都市殺し」(注2)で、町田市に住んでいた頃のことをこのように振り返っている。

実感として存在するのは神奈川の町田でも東京の町田でもなく、川を挟んで隣接する神奈川県相模原市と町田市が融和して形成された「町田・相模原」という固有のエリアだ。町田駅前に、相模原市の人間も町田市の人間も、「町田に行く」と言って出かけていく。

全体図としては駅周辺が人流の集合地点、それから町田・相模原、あるいは座間、藤沢その他が衛星都市ならぬ「衛星街」とでもいうべきか。そのうちのひとつに、それにしては巨大な山崎団地は位置付けられる。

いまふたたび山崎団地を訪れたのは筆者がこのような巨大な居住空間に久しく行っていなかったからだ。もちろん家の中に入れるわけではないけれど、それでも「外」であり同時に「内」でもあるような敷地内に生活の切片が落ちていないか探しにいった。そしてわずかばかりの記録をここに残しておく。f:id:udonjiro:20230304154753j:image
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(注1)UR都市機構「町田山崎」「住まいリポート」町田山崎住まいリポート(東京都)|関東エリア|UR賃貸住宅

(注2)高島鈴「巨大都市殺し」第一回(柏書房のwebマガジン、22年)巨大都市殺し|高島 鈴|かしわもち 柏書房のwebマガジン|note

 

ライツ! カメラ! ストップ!

私は写真が三つの実践(三つの感動、三つの志向)の対象となりうることに注目した。すなわち、撮ること、撮られること、眺めることである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ここに読まれようとしているのはバルトの言葉のとおり、写真をめぐる、とくに驚くに値しないこの三つの実践が、ほかの諸芸術とどう絡みあいどう分離されているのかをささやかに思考したテキストである。

たとえばごく私的に親しいひとへカメラを向けるとき、被写体は明るい場所で止まっていることを期待される。笑っていても無表情でも、おどけたポーズをとっていても、照れて顔を隠しても、身体は一瞬固定される。ブレを逆手に取った『プロヴォーク』のような写真表現はたしかにあるが、それでもオーソドックスに「静止」は撮られるときの第一条件であろうと思われる。もちろん撮る側もブレを最小限に抑えることに集中するだろう。鮮明な写真を撮るには、三脚を使うのがより好ましい場合すらある。画面が止まっていることは、映画ならアクションと音がないゆえに退屈だし文学ならページをめくり読み進められないという意味で致命的である。ここで絵画と写真は近接する。

にもかかわらずいまから展開したいのは、映画や文学ではなく写真固有の、おそらくはそのもろもろの制約によって生ずる特異性についてである。こういってよければ、写真を見るときに無意識的にでも鑑賞者が着目する点を、ときどき当たり前のこととの批判を受け入れながらピックアップしていきたい。

映画に親しんだ者ならば作中に写真的なカットを見出すのはたやすい。美的にすぐれた構図、光の差す角度、色調、俳優の顔、目線。ある特定の瞬間に、映画の時間的持続から離れてふとうっとりするような写真的カットが現出する。俗にいう「捨てカット」などは事物が動いていない場合も多く、次の「動き」に期待がかかる瞬間でもある。

しかしそれはあくまでつぎのカットへの緩衝材にすぎない。物語の起伏をつけるために、もしくは舞台を立体的に見せるためのほんのひとつの手段として用いられているばかりだ。物語的経済性を考慮に入れるならばあくまで人物どうしの会話や移動、動きのある事件、ラブシーン、裏切りなどをテンポよくつなげていき、それらが美的な、緊密な枠に収まっていたとしても従事するのは物語だし、あるいはそれらのバランスを観客は判断している。すなわち映画における写真的センス(光、構図、色……)は、時間性という映画最大の特徴のなかにあって、ひとつの要素にすぎない。

ことは文学にもかかわる。たとえば保坂和志は『小説の自由』でこのように述べる。

情景とは視覚であって、視覚は一挙的・並列的であるために、文字という順次的・直列的表現で再現するときに、書く方はもちろんのこと読む方も手間がかかることになる(・・・)

保坂は「小説とはまず、作者や主人公の意見を開陳することではなく、視線の運動、感覚の運動を文字によって作り出すことなのだ」と続け、まずもって、現実の情景と、それを文字にして描写することに隔たりがあることを指摘している。言葉で出来事なり事物なりを描こうとするとき、映像と異なって、そこには一見して全体を見渡せないという制約がつきまとう。細部の積み重ねによってしか、対象を把握できない。いうまでもないが、散文は、文字が「順次的」に連なっている。言い換えれば、語と語、文と文が〈隣接〉している。そしてそれらは少しずつ、次へ次へと読まれる。とすれば散文という場では、その長さと、「順次的」にしか言葉が読まれないという制約ゆえ、基本的に読解では〈隣接〉性が問題になるのではないか。

ここで目線の動きの問題が出てきた。テキストを辿るときの理解は順次的・直列的に行われる。このリニアな運動は、その作品を読解しようとすれば避けられない。対して映画の場合は時間の持続が向こうからやってくる。放っておいても話は進むし音楽も流れる。しかし画面にいま誰が映っているのかを判断するには一目で足りる。一挙的・並列的である。

写真は、じっとこちらから見るしかないのである。しかし見るというなかにも、複雑な目の動きがなされている。一枚の写真を見るとき、つねにひとつの画面を把握するために、無意識に目を細かく動かし、いろいろなところを連続して見ながら全体を把握している。先ほどの例でいえば、パッと一見したときは一挙的・並列的なんだけれども、全体を鑑賞する段になって「離散的」とでもいえそうなバラバラなまなざしを注いでいそうである。このような非=中心的なまなざしは、個人の趣味嗜好によって「突き刺してくるもの」(「プンクトゥム」©︎バルト)がちがうということの根拠になっているようにも思われる。要するに、だれが、どこに惹かれるか、事前にはわからないのだ。

平面ということでいえば松浦寿輝は『平面論』の中で「イメージ」の特徴について次のように述べている。

「等距離性」とは、先にも触れたように、遠さと近さの弁証法の消滅という事態を指している。「イメージ」は、遠くにあるものを近づける。現実の距離は無化され、遠いものも近いものもすべて同水準ののっぺりした平面の上に並ぶこととなるだろう。

写真がシュルレアリスムと親和的であったのも、デペイズマンの手法が、つまり異質なもの同士が「同水準」になる平面の上で出会うことが容易だったからだろう。そうでなくても、撮ったものは手元にくる。目の前にある。まさに「窓」としての写真。つづけて松浦はもうひとつ特徴を挙げている。

「再現性」とは、唯一性と一回性の消滅のことであり、複製技術による際限のないコピーの増殖を通じて独創的(オリジナル)なる起源(オリジン)という概念そのものが希薄化してゆく事態を指している。

念頭に置いているのはベンヤミンであろうが、これはメディア論の基礎的な確認事項であり写真は本丸中の本丸である。ここで、鑑賞において「静止」性で似通っていた絵画と写真は袂を分かつ。

ところでPhotographという言葉は、本来「光で描く」というニュアンスだそうだ。日本に写真が輸入された当初は「光画」と訳されることもあった。光ーーつねに肉眼で捉えそこなうもの。小林康夫は「光・顔・時間ーー写真は截断する」(『身体と空間』)で次のように述べる。

わたしたちはつい忘れてしまうのだが、シャッターとは、構造上も、まさに截断する刃にほかならない。それは、時間の流れ、光の流れを文字通り断ち切るのである。

写真を見るとは、時間のなかではけっして見えないこの光、もはや人間のものではないようなこの溢れる光を見ることだ。

カメラが「溢れる光」を定着したその技術論的転回の裏側では近代絵画が抽象画に向かったし、なにより「芸術家のための資料」といってアジェがパリの街を撮った写真を画家たちに売り捌いていた。光をどう表現するか。写真の登場で止まっている光を、物質としての光を、印画紙に、たえず近づきつつもたちどころに離れていって掴みそこなってしまうものとして定着しえたのである。

これは鑑賞においてはテクスチャーの問題である。伊藤俊治『増補20世紀写真史』では写真と物との関係を短くまとめている。

写真は物質である。

写真には、写真だけの、独特の奇妙な力、物性がある。

物からの眼差し、世界が人間をひっくり返し、人間を超越したものとしてあらわれてくる。

我々の自己はむきだしにされ、物質の細部や質感によって傷つけられ、貫かれ、刺され、えぐられ、まだらをつけられてしまうのだ。

写真の物性。写真自体が物であるということ。さらに写された物も、こちらを見返しているというのだ。手触りが、〈遠さ〉と〈近さ〉の関係を超えてこちら側に迫ってくるような、そんな石内都のような作品もある。

タイトルに掲げたのは、原則論である。というか、おおむね展示されている写真はこのように撮られているのだなと、つまり、光を調節し、カメラを構えて、被写体が止まるところを狙う……。だから、見るときもこのように見たい。光はどこからどれくらい差し込んでいるのか?  どの位置から撮ったのか?  被写体は直前までは動いていたのか?  ポーズは?  などと。複雑なテーマ設定の作品でもアプローチはシャッターを切るという古典的な動作からはじまっているわけだから、それを追跡するように思考をめぐらしたい。

これは人間の血の設定で、赤い絵の具を使っていますーー『桐島』再見

一つの色が他の色との接触によって変化するように、映像は他の映像との接触によって変化しなければならない。ーーロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』

 

いつだって映画は唐突にはじまる。吉田大八『桐島、部活やめるってよ』(2012年)のはじめのカットに映っていたのは名前も明かされない女子生徒が羽織っていた、真っ赤なジャージである。ひとまずその存在を忘れないでおくとして見進めると、映画部の部員たちがゾンビ映画の撮影のために血糊を用意していた。ジョージ・A・ロメロゾンビ映画に精通する前田(神木隆之介)は『映画秘宝』を持ち歩いていたけれど、『カイエ・デュ・シネマ』のゴダールのインタビューは頭の中によぎっていたのだろうか。

カイエーー『気狂いピエロ』ではたくさん血が流れますね。

ゴダールーー血ではなく、赤い絵の具です。

中平卓馬ゴダール『ウィークエンド』評で述べたのと同じように『桐島』では、「すべては『絵にかいた』ようなのである」。つまりラケットケースも屋上の扉も、体育のジャージもなにもかも、あちこちに、嘘みたいに赤色が散りばめられている。中平は「『ウィークエンド』で流された血は赤い絵の具であることを自明のこととして観客に明らかにした上で成り立つ血なのである」と記した。同様に本作でもラストの屋上の格闘シーンは、ほかのきわめてリアルなタッチで描かれるシーンとくらべてアンリアルなものではあるけれど、前田の「僕たちの映画が、ほかの映画につながっていると思うときがある」というセリフのように、血糊という手法を明かしつつ、映画的には確立されたジャンルであるゾンビ映画の系譜にあきらかに連なっている。

はじめに戻るが、桐島がいないという唐突さも手伝ってかいくつかのファクターによって作劇上の効果も高まっているように思える。たとえば腰から上を映しながらカットを刻むバストショット。人物を画面の真ん中に据えて二、三言喋らせる。関係性を明示するにはこれを繰り返すだけでこと足りる。そこにクローズ・アップ。この映画のもうひとつの特徴は、フレーム外に意識を集中させもする視線のドラマであろう。恋慕、嫉妬、動揺その他、前後の映像に誰と誰が映っているかだけで感情や気分が読み取れてしまう。そのように作られてある。引きの画も松籟(注1)高校という空間を立体的にさせるし、吹奏楽部の演奏も空間がつながっていることを体感させる。

しかし一方でそれらは古典的な手法でもある。あるいは、それらの組み合わせ。同時多発的な作劇法も青春群像劇というジャンル性も、ワーグナーの音楽さながらラストの交響的展開もミステリー的な仕掛けもその合間のサスペンスも、映画の歴史の蓄積である(注2)。

「絵にかいた」ようなのはそれだけではない。人物たちは鉢合わせる。つねに都合よく。一歩引いて見れば、血が赤い絵の具であるのをわかって見ているのと同様それがフィクション上の操作であることもわかる。しかしそのスムースさもまたブレッソンの言葉のように映像のつなぎ方の効果なのかもしれない。カメラの寄り引き。そしてリズム。この映画では長回しはごく重要な場面でしか用いられない。

『ゴドー』を引き合いに出して本作を語る評もある。たしかにときにこの映画はコントであるし、不在で物語が駆動する。けれど巻き込まれる人数と視点の数が両者を分けていると思う。

「半径1メートル」で探したテーマは、TSUTAYAでふと手にした『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のDVDだったかもしれない。

 

(注1)松籟(SHORAI)=将来という細工を見抜くと、最後の屋上のシーンで宏樹(東出昌大)がカメラに映されていなかったこと、その後泣いたこと、グラウンドを眺めていたことが、一人だけ進路表を決め切れない状況に対応しているのではないかと思えてくる。

(注2)ガス・ヴァン・サント『エレファント』と比較して本作を過度に貶す向きもあるが、あまり賛同できない。